2-34
山に抱かれるように沈む、ひと気のない廃村。
かつて魔物に蹂躙され滅んだその村には、今も誰ひとり戻ることはない。
カイルは、蛇の法衣からのわずかな情報と密偵としての経験、
そして鋭い魔力感知の力を頼りに、この場所へと辿り着いていた。
荒れ果てた家々。
崩れた屋根、ひび割れた壁、朽ちた扉。
風に揺れる木の枝が建物の残骸に触れるたび、軋む音が村の静寂を引き裂く。
それでも、かつて人が生きていた痕跡はところどころに残されていた。
倒れかけた井戸、風に削られた看板、苔むした石畳に残る小さな足跡。
そんな廃墟の中で、ひときわ異様な気配を放つ建物があった。
村の最奥、朽ちた坂道の果てにぽつりと残る、小さな教会。
石造りの外壁は一部崩れ、ステンドグラスの破片が入口付近に散らばっている。
その崩壊の仕方は、時の流れによるものではなかった。
むしろ、つい最近、何か凄まじい力が内部でぶつかり合った――そんな痕跡が露わだった。
扉の残骸に手をかける前から、カイルは確かに“それ”を感じた。
残された魔力の気配。
そのひとつは、澱んだように沈み、死の静けさを思わせる。
だが、それに絡むように存在している、もう一つの気配――
どこか異質で、冷たく、けれど美しい。
芯に狂気を宿した、甘く粘つくような魔力の残滓。
それは、感覚の奥底に触れてくる。
拒絶を誘うほどに強く、なのに抗いがたい。
カイル「……間違いない。ベルはここに来た。そして――誰かと、戦ったんだな」
息を潜めるように呟いた声は、廃墟の静寂に吸い込まれていった。
そして、教会の扉を開く。
軋む音が、廃墟の静寂を裂いた。
カイルは息を殺し、崩れた瓦礫をかき分けて進む。
剥き出しの石床に、血の跡はない。だが、確かにこの場所に“何か”があった。
魔力の残滓は、この祭壇前に集中している。
そこには――ベルの気配が淡く残されていた。
ほんの微かでも、彼の感覚は決して見逃さない。
ふと、視線が足元の黒い光に引き寄せられる。
それは、装飾のない小さな短剣だった。
鋳造の歪みさえ感じさせる素朴な造り。
だが、刃の付け根にわずかに残された血のような赤錆が、ただの護身具ではないことを示していた。
カイルはそっと手に取った。
――瞬間、胸の奥に痛みのような熱が走る。
記憶が、静かに、だが確かに蘇る。
* * *
ベル「……助けてくれたお礼よ。それと、“逃がした”ことに対する、あなたの保険。」
森の中の廃屋。
吹き込む風が軋む壁板を揺らす中、ベルは湯のみをそっと置くと、腰の短剣を抜いた。
そして――
迷いなく、自らの髪を一房、静かに切り落とす。
淡いラベンダー色の髪が宙に舞う。
銀と紫の間を揺らぐ光の粒子のように、月明かりの中で舞い落ち、彼女の掌に収まる。
それを丁寧に布で包むと、ベルはカイルに差し出した。
その仕草に、彼は息を呑んだ。
* * *
カイル「……ここで……何があった……」
カイルは黒鉄の短剣を胸に抱きしめたまま、崩れた地面に跪いた。
そこにはもう、ぬくもりなど残っていない。
だが、刃を通して確かに感じる――消えかけた気配。それは彼女がいたという痕跡であり、
忘れるな、と耳元で囁かれたような錯覚すら覚えた。
あの日の夜。
ベルと別れたあと、カイルはすべてを報告した。
蛇の法衣のもとへ。
彼女を逃がしたことも、自ら差し出された髪を持ち帰ったことも、偽りなく告げた。
けれど――処罰はなかった。
代わりに、その一房の髪は「証拠」として扱われ、
呪術的研究や同調儀式に用いる“貴重な素材”として幹部たちに喜ばれた。
そして、報酬が与えられた。
あたかも、それが正当な“成果”であるかのように。
だが彼の胸に宿ったのは、感謝ではない。
そこに巣食ったのは、押し潰されるほどの罪悪感――そして、それに混じる、ひどく個人的な後悔だった。
あの瞳を、あの夜の言葉を――彼は今も、焼きついたまま忘れられない。
ベルは、美しかった。研究対象としてではない。神秘でも奇跡でもない。
ただ、触れたいと思った。壊れそうなその存在に、縋りつきたいと思った。
それなのに、自分はその髪を“成果”と呼び、冷たく持ち帰った。
彼女を“モノ”として扱った。
意思も、記憶も、祈りも――全部を、勝手に切り離して。まるで、彼女がただの標本であるかのように。
あの夜、月の光だけで咲く花のように、儚く、美しかった横顔。
遠くを見ていたその瞳に、彼は抗えず見惚れた。
理解ではない。ただの本能だった。
美しいと思った。欲しいと思った。
傍にいたい――それだけを、心のどこかで、呪いのように繰り返していた。
それなのに。
何もできなかった。
だから、決めたのだ。
次は、必ず見つける。
再会こそが、“贖罪”の始まり――否、それ以上の意味を持つ。
彼女が望まなくても、自分だけはその意味を知っていればいい。
けれど――
その決意の奥底には、どうしても拭えない問いが、黒く蠢いていた。
もし彼女を見つけた時――
自分は、どうするのか?
蛇の法衣の密偵として、“対象”を捕らえるのか?
それとも――全てを捨てて、彼女に縋るのか?
答えは出ない。出せるはずもない。
ただ、手の中の短剣だけが黙して語らず、持ち主の帰りを静かに待ち続けていた。