表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/316

2-32

小さな部屋に、かすかな月明かりが滲んでいた。

それは、本来存在するはずのない“窓”から、静かにこぼれ落ちてくる光。


けして開くことは出来ないその窓は、外界との接続を魔力で完全に断ち切られている。

にもかかわらず、その向こうには、まるで神の手で描かれたかのような夜の景色が広がっていた。


星々が揺れ、蒼銀の雲が流れ、月が淡く、静かに微笑んでいる。


それはセラフが作り出した、偽物の空。

「彼女をすべて縛った記念に」と、あの時、囁くように微笑んだ。


部屋の空気は甘い。ひどく甘い。

花の蜜のようでいて、薬草の気配を含み、毒のように濃く、肺の奥まで染み込んでいく。


香りだけで、意識がわずかに浮遊する。境界が揺らぎ、夢と現実の輪郭がぼやけていく。


ベルは椅子にもたれ、瞼を閉じたまま、ただ静かにその気配に身を委ねていた。

何も言わず、何も拒まず――けれど確かに、彼の“存在”を、感じ取っていた。


セラフ「……やっと、君が僕から離れることがなくなった」


耳元に落ちた声は、まるで愛撫のように柔らかく、傷をそっと撫でる手つきのように優しい。


だがその言葉の奥、精神を繋ぐ見えない糸の向こう側から、別の熱が滲み出していた。


渇き。執着。獣のような飢え。

この先にある“情事”を、幾度となく想像し、喉の奥で甘く反芻するような、濃密な欲望。


それは、気配だけで彼女を侵す。

肌を這い、髪を撫で、思考をとろけさせながら、深い場所へと絡みついていく。


セラフ「だから、外を見せてもいいと思ったんだ」


囁く声は穏やかで、美しくさえあった。けれどその言葉の奥に潜む熱――

それは理性を装った執着であり、祈りに似た狂気だった。


その熱が、ベルの胸元に降り積もる。雪のように静かに、火のように執拗に。


まだ触れられていないのに、感覚は錯覚する。

柔らかな指先が皮膚の下へ潜り込み、心臓の鼓動をなぞっているような感触。


精神の糸を通じて流れ込んでくる彼の「想い」は、あまりにも濃密だった。


それは言葉で包めるものではなく、意志の形をした液体のように、とろりと、ベルの内側を満たしていく。


肩に添えられた手は、まるで宝石を扱うような繊細さで――

なのに、その指の先には、かすかな震えが宿っていた。


抑え込まれた渇き。破壊衝動を抱いた愛撫。

そのすべてが、皮膚を通して、ベルの精神にまで染み渡る。


セラフ「……こんなにきれいで、こんなに危うくて……壊れそうで、怖かった。

でももう、大丈夫。君はここにいる。“僕のもの”として、確かに。」


その瞳は、まるで神の祝福のように穏やかで、光を帯びていた。

けれど、瞳の奥で渦巻くのは、乾ききった欲望。

優しさの仮面を被ったまま、逃げ道をふさぐように、じわじわとベルを追い詰めていく。


空気の密度すら変わっていた。甘く、重たく、絡みつくように。

呼吸ひとつすら、セラフの意思に絡め取られているかのようだった。


そして――彼はベルを抱き上げた。


慈愛のように。崇拝のように。

けれどその腕は、牢のように硬く、絶対に離さないという執念が宿っていた。


柔らかな抱擁の奥底で、精神の奔流がさらに勢いを増す。

ベルの奥深くへ、奥深くへと染み込み、焼きつけていく。


愛という名の呪いが、声もなく告げられていた。

「君はもう、僕から離れられない」――そんな静かな宣告が、骨の髄にまで響いていた。


セラフ「もう座っていなくていいよ。……おやすみの時間だ。」


囁きは優しくて、どこまでも柔らかかった。

それなのに、拒む余地も、逃げ出す隙間すら与えてはくれなかった。


抗うこともできず、ベルは彼の腕の中に閉じ込められる。

逃れられない抱擁。ゆるやかに肩へ頭を預けると、薄く開けた瞳の中で、窓に映る月が揺れていた。



偽りの空。偽りの自由。

けれど、それすらも、美しく思えてしまうほどに――

セラフの狂気は、甘く、静かで、決して解けない絆だった。


セラフ「もう、どこにも行かなくていいよ。君が眠る場所は……僕のそばだけで、充分だろう?」


その囁きは、深く、魂に届くように甘やかだった。

まるで祈りのように、罪のように、美しかった。


彼は歩き出す。

世界でいちばん優しく、そして――世界でいちばん、逃げられない足取りで。


ベルの瞳は、静かに閉じられる。

この夜の先に何が待つのかを知りながら、何も言わず、ただ――深く沈んでいく。


温かいのに、どこか冷たい。

その腕の中、ベルは不思議な錯覚に包まれていた。


ふわりと浮かぶ身体は、まるで現実から乖離するように軽やかで、

けれどセラフの精神に触れている箇所だけが、じんじんと熱を帯びて重くなる。


“触れていないはずの場所”が疼く。


皮膚でも、肉でもない、もっと深い場所――魂の奥に届くような疼き。

記憶のようでいて、記憶ではない。


想起された感覚が、セラフの欲望と交わった精神の波から、音もなく染み込んでくる。


それは、夢か、呪いか。

けれどもう、抗う気力すら、どこかへ溶けてしまっていた。


心が、溶けていく。

理性という名の薄膜が、じわじわと焼かれて、崩れ落ちていく。

どこまでが“私”で、どこからが“彼”なのか――その境界は、甘く腐った果実のように、どろりと溶けて滲んだ。


ベルの呼吸が、ひとつ、浅く、苦しげに揺れる。


(この熱は……違う。私のじゃ、ない……)


けれど、その否定すら、もはや意味を成さなかった。

セラフの思念が、静かに、しかし容赦なく流し込んでくる“渇き”――

それは毒とも蜜ともつかない感情で、ベルの内側を、狂おしいほど静かに壊していく。


意識の奥深くに潜んでいた“孤独”と“飢え”――

長い年月をかけて封じ込めたはずのものが、セラフの欲望に共鳴し、軋み、震え始める。


甘く、苦しく、破滅的な共鳴。

それはもはや逃れようのない呪い。

ベルという存在の輪郭を、静かに、しかし確実に侵食していく。




本来はセラフの感情のはずだった。

なのに、それは、まるでベル自身のものであるかのように、胸の奥から湧き上がってくる。


優しさ、独占欲、哀しみ、そして、静かに爛れた狂気――

それらが溶け合った、“愛”と呼ぶにはあまりにも歪な感情。


それがベルの心を、じわじわと染めていく。

懐かしさすら感じるほどに馴染み深く、けれど確かに異物だったものが、

あたかもずっと渇望していたもののように、心の隙間を満たしていく。




思考が、濁る。


意識の境界が、曖昧になっていく。


セラフの想いが強くなるたびに、

それが自分の気持ちであるかのように錯覚してしまう。

ベルの声が、セラフの声に溶け、混ざり、区別がつかなくなる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ