2-32
小さな部屋に、かすかな月明かりが滲んでいた。
それは、本来存在するはずのない“窓”から、静かにこぼれ落ちてくる光。
けして開くことは出来ないその窓は、外界との接続を魔力で完全に断ち切られている。
にもかかわらず、その向こうには、まるで神の手で描かれたかのような夜の景色が広がっていた。
星々が揺れ、蒼銀の雲が流れ、月が淡く、静かに微笑んでいる。
それはセラフが作り出した、偽物の空。
「彼女をすべて縛った記念に」と、あの時、囁くように微笑んだ。
部屋の空気は甘い。ひどく甘い。
花の蜜のようでいて、薬草の気配を含み、毒のように濃く、肺の奥まで染み込んでいく。
香りだけで、意識がわずかに浮遊する。境界が揺らぎ、夢と現実の輪郭がぼやけていく。
ベルは椅子にもたれ、瞼を閉じたまま、ただ静かにその気配に身を委ねていた。
何も言わず、何も拒まず――けれど確かに、彼の“存在”を、感じ取っていた。
セラフ「……やっと、君が僕から離れることがなくなった」
耳元に落ちた声は、まるで愛撫のように柔らかく、傷をそっと撫でる手つきのように優しい。
だがその言葉の奥、精神を繋ぐ見えない糸の向こう側から、別の熱が滲み出していた。
渇き。執着。獣のような飢え。
この先にある“情事”を、幾度となく想像し、喉の奥で甘く反芻するような、濃密な欲望。
それは、気配だけで彼女を侵す。
肌を這い、髪を撫で、思考をとろけさせながら、深い場所へと絡みついていく。
セラフ「だから、外を見せてもいいと思ったんだ」
囁く声は穏やかで、美しくさえあった。けれどその言葉の奥に潜む熱――
それは理性を装った執着であり、祈りに似た狂気だった。
その熱が、ベルの胸元に降り積もる。雪のように静かに、火のように執拗に。
まだ触れられていないのに、感覚は錯覚する。
柔らかな指先が皮膚の下へ潜り込み、心臓の鼓動をなぞっているような感触。
精神の糸を通じて流れ込んでくる彼の「想い」は、あまりにも濃密だった。
それは言葉で包めるものではなく、意志の形をした液体のように、とろりと、ベルの内側を満たしていく。
肩に添えられた手は、まるで宝石を扱うような繊細さで――
なのに、その指の先には、かすかな震えが宿っていた。
抑え込まれた渇き。破壊衝動を抱いた愛撫。
そのすべてが、皮膚を通して、ベルの精神にまで染み渡る。
セラフ「……こんなにきれいで、こんなに危うくて……壊れそうで、怖かった。
でももう、大丈夫。君はここにいる。“僕のもの”として、確かに。」
その瞳は、まるで神の祝福のように穏やかで、光を帯びていた。
けれど、瞳の奥で渦巻くのは、乾ききった欲望。
優しさの仮面を被ったまま、逃げ道をふさぐように、じわじわとベルを追い詰めていく。
空気の密度すら変わっていた。甘く、重たく、絡みつくように。
呼吸ひとつすら、セラフの意思に絡め取られているかのようだった。
そして――彼はベルを抱き上げた。
慈愛のように。崇拝のように。
けれどその腕は、牢のように硬く、絶対に離さないという執念が宿っていた。
柔らかな抱擁の奥底で、精神の奔流がさらに勢いを増す。
ベルの奥深くへ、奥深くへと染み込み、焼きつけていく。
愛という名の呪いが、声もなく告げられていた。
「君はもう、僕から離れられない」――そんな静かな宣告が、骨の髄にまで響いていた。
セラフ「もう座っていなくていいよ。……おやすみの時間だ。」
囁きは優しくて、どこまでも柔らかかった。
それなのに、拒む余地も、逃げ出す隙間すら与えてはくれなかった。
抗うこともできず、ベルは彼の腕の中に閉じ込められる。
逃れられない抱擁。ゆるやかに肩へ頭を預けると、薄く開けた瞳の中で、窓に映る月が揺れていた。
偽りの空。偽りの自由。
けれど、それすらも、美しく思えてしまうほどに――
セラフの狂気は、甘く、静かで、決して解けない絆だった。
セラフ「もう、どこにも行かなくていいよ。君が眠る場所は……僕のそばだけで、充分だろう?」
その囁きは、深く、魂に届くように甘やかだった。
まるで祈りのように、罪のように、美しかった。
彼は歩き出す。
世界でいちばん優しく、そして――世界でいちばん、逃げられない足取りで。
ベルの瞳は、静かに閉じられる。
この夜の先に何が待つのかを知りながら、何も言わず、ただ――深く沈んでいく。
温かいのに、どこか冷たい。
その腕の中、ベルは不思議な錯覚に包まれていた。
ふわりと浮かぶ身体は、まるで現実から乖離するように軽やかで、
けれどセラフの精神に触れている箇所だけが、じんじんと熱を帯びて重くなる。
“触れていないはずの場所”が疼く。
皮膚でも、肉でもない、もっと深い場所――魂の奥に届くような疼き。
記憶のようでいて、記憶ではない。
想起された感覚が、セラフの欲望と交わった精神の波から、音もなく染み込んでくる。
それは、夢か、呪いか。
けれどもう、抗う気力すら、どこかへ溶けてしまっていた。
心が、溶けていく。
理性という名の薄膜が、じわじわと焼かれて、崩れ落ちていく。
どこまでが“私”で、どこからが“彼”なのか――その境界は、甘く腐った果実のように、どろりと溶けて滲んだ。
ベルの呼吸が、ひとつ、浅く、苦しげに揺れる。
(この熱は……違う。私のじゃ、ない……)
けれど、その否定すら、もはや意味を成さなかった。
セラフの思念が、静かに、しかし容赦なく流し込んでくる“渇き”――
それは毒とも蜜ともつかない感情で、ベルの内側を、狂おしいほど静かに壊していく。
意識の奥深くに潜んでいた“孤独”と“飢え”――
長い年月をかけて封じ込めたはずのものが、セラフの欲望に共鳴し、軋み、震え始める。
甘く、苦しく、破滅的な共鳴。
それはもはや逃れようのない呪い。
ベルという存在の輪郭を、静かに、しかし確実に侵食していく。
本来はセラフの感情のはずだった。
なのに、それは、まるでベル自身のものであるかのように、胸の奥から湧き上がってくる。
優しさ、独占欲、哀しみ、そして、静かに爛れた狂気――
それらが溶け合った、“愛”と呼ぶにはあまりにも歪な感情。
それがベルの心を、じわじわと染めていく。
懐かしさすら感じるほどに馴染み深く、けれど確かに異物だったものが、
あたかもずっと渇望していたもののように、心の隙間を満たしていく。
思考が、濁る。
意識の境界が、曖昧になっていく。
セラフの想いが強くなるたびに、
それが自分の気持ちであるかのように錯覚してしまう。
ベルの声が、セラフの声に溶け、混ざり、区別がつかなくなる。