2-31
ベルは、あの隔絶された空間に囚われて以来、初めて外の世界へと連れ出された。
だがそれは、解放の兆しなどでは決してなく――新たな絶望へと誘う、果てなき迷宮の入口に過ぎなかった。
聖なる祈りが途絶え、朽ち果てた聖堂。
砕けたステンドグラスから差し込む冷たい光は、もはや救いの象徴ではなかった。
その光の中、まるで永遠の肖像画のように、ベルは静かに座らされていた。
彼女の身を包むのは、純白のドレス。
けれど裾にかけて、血のような深紅がじわりと滲み出している。
白の清純さを裏切るその染みは、まるで彼女の時の底に沈んだ血の記憶が、衣を通して溢れ出したかのようだった。
ラベンダーの髪には、同じ色合いのヴェールがそっと被せられている。
それは、彼女の色を忠実になぞるかのように織られたもの。
そこには、セラフの異様なまでの執着が漂っていた――
ベルを「そのまま」保存しようとする願いが、どこまでも歪で、どこまでも純粋だった。
ベルの瞳は、ぼんやりと開かれていた。
焦点の合わないその眼差しは、見えていないものを見つめている。
抗うでもなく、屈するでもなく、ただ――終わりを受け入れるような、静かな諦観。
言葉よりも深く、死よりも淡く、彼女の沈黙が聖堂の空気に溶けていった。
セラフは彼女の目の前で静かに膝をつき、言葉ではなく、術式によって誓いを刻み始めた。
床に広がる無数の呪印が、血と魔力によって静かに再構築されていく。
それはもはや契約ではない――
所有。拘束。支配。
言葉など不要な、絶対の誓約だった。
セラフ「縛れ、星の絆よ、永遠に絡みし運命の糸よ。
血潮に染まりて、深き闇より呼び覚まされん。」
低く、厳かに、時の流れを断ち切るように響く声。
セラフ「結べ、魂の輪廻を断つ、永劫の契約よ。
心の扉を開き、我が意志にて汝を導かん。」
呪術陣は、ベルを取り囲む闇を切り裂き、光の環となって広がる。
セラフは静かに血を滴らせ、ひとつひとつの印を丁寧に刻み続ける。
魔力が肌を貫き、髄にまで満ちるごとに、ベルの身体は微かに震えた。
セラフ「その身も、心も、魂も――すべてを我がものとし、
抗えぬ鎖となれ。拒絶は風に散り、屈服の炎に焼かれよ。
今、汝は我が血脈に縛られ、永遠の主従を結ばん。」
ベルは動かない。
抗うでも拒むでもなく、ただ静かに彼の意志に身を委ね、そこに在る。
やがて、最後の印が結ばれ、術式は重く完結した。
セラフはゆっくりと立ち上がり、その瞳には神聖な陶酔が宿っていた。
激しい感情の爆発ではなく、得た絶対の支配の果てにある、深い静寂の微笑。
セラフ「これで――ようやく、君は僕のものだ。」
冷徹な声が闇に沈むように響く。
彼はゆっくりと懐から小箱を取り出した。
その中にあったのは、細く冷たく、凍りつくような金属の指輪。
表面には緻密な呪文が刻まれ、それはまるで永遠に解かれぬ牢獄の鍵のように、じわりと魔力を帯びていた。
触れるたび、指輪は赤褐色の不吉な光を放ち、その輝きは「愛の証」と呼ぶにはあまりにも重く、禍々しかった。
セラフは丁寧に、しかし逃れられぬ運命を刻み込むかのように、ベルの左手薬指に指輪をはめた。
ベルの指が、震える。――まるで、そこに自らの魂を縛る永遠の鎖が刻まれたことを知っているかのように。
そして彼は、彼女の唇に長く、深く、逃げ場なき呪縛の口づけを落とした。
静かに、確かに、魂を絡め取るようなその接触。
やがて彼は、冷たき鉄の枷に手を伸ばし、
金属が砕けるかのように、カチャリと音を響かせた。
セラフ「逃げ場はもう、どこにもない――
首輪はもう要らないね、ベル。君は今、永遠にここに縛られたのだから。」
その囁きは蜜のように甘く、毒のように優しく、
何よりも残酷に、彼女の心を蝕んだ。
ベルはただ静かに、夢の淵で見た幻の景色のように、
ひとつの瞬きを零す。
紅く脈打つ指輪は、沈黙の中で、
破滅の鼓動を刻み続けていた。
あの日の儀式の夜が終わり、静寂が冷たく重く沈殿した翌朝。
ベルはまだ、夢と現の境界に漂い、魂は揺らめいていた。
そこは魔力の渦が絡み合う結界の檻。セラフの楽園と呼ばれる部屋。
外界とは完全に断絶され、時さえもゆっくりと溶けていく、歪んだ空間。
彼女はその中で、眠るとも覚めるともつかぬ薄氷の意識の中にいた。
左手の薬指に鈍く光る指輪が、まるで彼の心臓の鼓動のように、赤く脈打つ。
身体を包むのは、セラフが選んだ柔らかな衣装。
まるで繭に包まれた人形のように、美しくも冷たく、傷ひとつない姿で。
部屋の隅で彼は静かに本を読みながら、時折彼女を見つめる。
その視線は優しく、時に激しく、愛を孕みながらもどこか狂気をはらんでいた。
彼の声は囁きのように甘く、だがベルにはそれが、遠く朧げな幻影のようにしか届かない。
――私は、まだここにいるの?
意識の底で零れるその問いは、まるで囚われた魂が放つささやかな叫びのようだった。
抗う力は消え、しかしまだ壊れはしない。
凍りついた彼女の深層、“ベル”は、静かな沈黙の中で、愛と狂気の狭間に揺れていた。
不意に、セラフが本を閉じて立ち上がる。
そして迷いなく、ベルの隣に腰掛けると、静かに彼女の髪を撫でた。
セラフ「少し熱があるね。……馴染むまで、まだ時間がかかるのかもしれない」
その声には、微かに哀しみが滲んでいた。
けれどそれは、彼女の苦しみに寄り添うものではない。
“思い通りにならないこと”への、静かな苛立ちと嘆き――。
不死の身体で体温を持たないはずのベルにとって、発熱は異常の兆し。
魂が、肉体が、何かを拒絶している証だった。
ベルはただ、視線をゆっくりと上げる。
虚ろな瞳の奥に、かすかに、色のようなものが揺れていた。
彼の微笑が落ちる。
それは優しく、美しく、そしてどこか脆い――
狂気に触れるほどに深く、歪んだ愛情の形。
セラフ「大丈夫。すぐに馴染むよ。君はもう……僕の中でしか、生きられないんだから」
彼はそっと、ベルの指先に唇を寄せた。
薬指の指輪に。呪いの印に。
その瞬間――
かすかな揺らぎが、ベルの胸奥をかすめる。
ベル(……これは、“呪い”)
指輪を起点に、不可視の糸がいくつも伸びていた。
見えるはずのないそれらが、薄靄の中で絡まりながら淡く光っている。
ひとつ、ふたつ……いや、数えきれないほどの糸。
そのすべてが、ベルとセラフを――あまりにも緻密に、あまりにも親密に――結びつけていた。
正体の知れぬ糸たちは、ただ気配だけを孕んで揺れていた。
花嫁のヴェールのように、ベルを包み、塞ぎ、覆い隠す。
それはまるで、“個”という境界すら溶かしてしまうようだった。
ベルは、瞬き一つを落とす。
そのまま、まどろむように瞼を閉じる直前――ほんのわずかに、唇が動いた。
それは、囁きにも満たぬ問い。
ベル「……これで、満足?」
セラフの笑みが、かすかに歪む。
だが何も答えず、ただ静かに彼女を抱きしめた。
その腕の中で、ベルの心も、思考も、
糸の帳に包まれるように、静かに沈んでいった。