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ここは、風が鳴る街――。


魔法ギルドの総本部を戴く都市、エルセリオ。

この街には、季節を問わず絶え間なく風が吹きすさび、それに乗って流れ込む魔力が、目に見えぬ濁流となって街を包む。


風はただの風ではない。


魔術の残滓、祈りの欠片、失われた呪文の名残。


幾百年にわたり積み重なってきた魔術師たちの営みが、空気の粒子に滲んでこの街に漂っている。


かつて、この風の街に、“ひとりの少女”が幾度となく姿を現していた。


永く生きる者たちの間でも、記憶に霞がかかった伝説のように語られるその存在は、数十年、あるいは数百年という時の狭間を飛び越えては、ふいに現れてはまた消えた。


《蛇の法衣》がカイルをこの都市に潜入させたのは、単なる偶然ではない。

それは慎重に重ねられた推察と、ひと握りの直感に導かれた、静かな一手だった。



神の祝福を受けた異質な存在――ベル。


その足跡が数多く刻まれたこの街の周辺で、ひとつの異変が報告された。


焼け落ちた山あいの村。その灰の中に、ラベンダー色の厄災の痕跡。

同時期、エルセリオには“黒き観測者”の魔術師たちが姿を現していた。

二つの兆し――奇妙に重なり合う不自然な符合。



《蛇の法衣》は、これを見逃さなかった。



カイルは密偵として、けれど表向きは街角の治療師として、ギルドに登録し、街の診療所に身を置いた。


それは地に根を張るというより、風の流れを読むために風そのものとなる行為。

観測者たちの動向を水脈のように追いながら、ただひたすらに、ベルの再訪を待ちつづけた。


だが――

ベルも、観測者たちも。

ある時を境に、この街から、風のように消え去った。


まるで、最初から存在などしなかったかのように。


カイルは知っていた。


彼女が“黒き観測者”の魔術師たちに襲われたことを。

冷静を失い、何かに取り憑かれたように、本能のまま彼女に手を伸ばした男たちの姿を。


そして――彼女を救い、その場から逃したのが、他ならぬ自分だったことも。


《蛇の法衣》から命じられていたのは、監視と報告。


任務に忠実であろうとするなら、いくらでも言い訳はできた。

密偵である彼は、実働部隊に比べて戦闘力では劣る。


死神の魔術を操る“不死の魔女”を、一人で追うのは無謀だった――

戦闘を受け、撤退を余儀なくされたと報告すれば、責任は問われなかっただろう。


だが、彼はそうしなかった。

ただ一言だけ、報告書に記した。


「見失いました」


それは、小さな――けれど確かな、彼の誇りだったのかもしれない。

心を奪われた彼女に対する、密やかな反抗。

命令という枷の内側で、せめてもの抵抗。


それでも、命令が解除されることはなかった。


カイルはただ、風の街にとどまり続けた。

次なる“兆し”が現れる、そのときを待ちながら。


だから――今夜。

隠し戸棚の奥に、静かに這い出る黒い蛇を目にしたとき。

彼は即座に立ち上がった。


カイル「……来たか」


蛇が咥えていたのは、封蝋された巻物。

記された言葉はひとつもなく、だが確かに伝わる。


それは《蛇の法衣》からの無言の命令――再び、彼女の気配が現れたという、告げざる知らせ。


彼が巻物を開いた瞬間、胸の奥で何かがかすかに揺れた。

封を解かれた文字が、静かにカイルの視線を貫く。


――『魔女の追跡を再開せよ。カイル・ノア=グランディールに次の探索任を命ずる。彼女が最後に向かったと思われるのは……』


“魔女”――その言葉が意味するのは、たった一人。


あの夜、闇の中で助けた少女。


死神のように静かな気配と、どこまでも透き通った眼差し。

誰も寄せつけないような微笑みなのに、なぜか心に残って離れなかった。


カイル(……本当に、俺は彼女を捕らえることができるのか)


任務だとわかっていても、割り切れるものではなかった。

あの夜、確かに彼は、彼女に心を奪われた。

そして今、また彼女を“追う”ことになる。


命令には従わなければならない。

けれど、心まで従う必要はない。


カイルは小さく息を吐いた。

そのまま、巻物をランプの炎にくべる。

巻物はゆっくりと燃え、灰となって宙に舞った。


それを見届けながら、カイルはわずかに笑った。


風の街に潜む密偵は、再び歩き出す。

かつて助けた少女を、今度は“敵”として追うために。

あるいは、もう一度守るために。


その時、風がふと変わった。


乾いた街路を優しく撫でていた春の風が、どこか震えるような冷たさを帯びて、カイルの髪をそっとかすめる。


それは――懐かしい魔力の揺らぎだった。

まるで風そのものが、ためらい、迷いながらも、それでもなお伝えねばならない何かを運んできたかのように。


《カイル》


心の奥を震わせる、澄んだ声。

彼が千の夜を越えても忘れなかった声――エラヴィア・セリスフィア。

魔法ギルドを統べる大賢者にして、かつてのカイルの魔法の師。


千年の知を誇る彼女の声は、今、かすかに乱れていた。わずかに震えを帯びていた。


エラヴィア《私の古き、かけがえのない友が――消えました》


短いその言葉の裏に潜む葛藤と恐怖を、カイルは感じ取る。


エラヴィアは軽々しく「消えた」などと口にする人物ではない。彼女が自ら動けない事情があることも、彼には分かっていた。


エラヴィア《貴方が彼女を追っていることも、その理由も知っています》


緊迫した色を帯びた声が、静かに続く。


カイルがギルドを去ったあと、彼女の教えとは相容れぬ組織に身を置いたことも、すべて知っている――それでも、なお。


それでもなお、彼にしか託せない何かがある。

その必死な想いが、風を通して伝わってくる。


エラヴィア《これまでも、彼女が姿を消すことはありました。でも今回は……違うのです。

魔力が、何かに絡め取られるように……果実が枝から落ちるように、柔らかく、けれど抗えぬ力で摘み取られた。


そして――それがそのまま、呑み込まれていくように……世界から、沈んでいったのです》


風の精霊の声を聞くエラヴィアの観測は、誰よりも早く、誰よりも正確だ。


それは、蛇の法衣が掴んだ情報よりも、確かに“真実”に近い。

だからこそ、カイルの胸に重くのしかかる。


風に乗って届いた声は、どこか脆く、細い。


それが、あの揺るがぬ大魔導師――エラヴィアのものであるという事実に、カイルの心は静かに揺れた。


エラヴィア《……私は、ギルドの立場を壊すことはできません。

黒き観測者とも、蛇の法衣とも、争えない。

本当なら、こんなことを貴方に頼むべきではないと……わかっている。

けれど……今の私は、“友”として。ただ、それだけの存在として――貴方に願います。……どうか、彼女を……ベルを……》


その声は、そこでふっと途切れた。

風が通り過ぎ、残されたのは、ただ静寂だけだった。


カイルはその場に立ち尽くしたまま、長い沈黙に身を委ねた。

心の奥で、何かが軋む音がする。


あのエラヴィアが――立場を捨て、誇りを曲げ、それでも「友」として語りかけた。

その震えた声に、偽りなどひとかけらもなかった。


カイル「……先生の声が、あそこまで揺れたのは……初めてだ」


その事実が、何より胸に刺さった。


彼女にとってベルは、かつて遠い昔に旅をした仲間であり、普通の人間が生きる命の何倍もの時を共にした――かけがえのない、真の友だったのだ。


だからこそ、彼女は言葉を選び、誇りを飲み込み、それでも祈った。


その祈りを、無視することなどできるはずがなかった。


冷たい予感が、じわじわと胸の奥に忍び寄る。


これはただの「失踪」などではない。

何かが、深く、静かに――ベルを覆い隠した。

まるで彼女という存在そのものを、どこかへ閉じ込めてしまったかのように。


カイル「……その願い、確かに受け取りました」


自らに言い聞かせるように、カイルはそう呟いた。


この先に待つものが、どれほどの犠牲を求めようとも。

たとえ、それが彼自身を砕くものであったとしても――。


街を後にする背中に、風がそっと吹いた。

それはまるで、彼の決意を押し出すように。


あるいは、その先に待ち受ける“何か”を、静かに見届けようとするかのように。



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