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――蝋燭の火が揺らめく。
荒れた石造りの祭壇。その奥には、崩れ落ちた偶像が幾つも並んでいた。
信仰の象徴を踏みにじるように築かれたこの空間こそ、「神なき真理」を求める者たち――黒き観測者の拠点である。
彼らにとって、神とは世界に巣食う「不要な誤認」だ。
祈りも奇跡も、理を歪める毒。信仰とは、思考を腐らせる甘言でしかない。
その思想のもと、観測者たちは各地の神殿に潜入し、聖職者を断罪し、神の痕跡を記録ごと塗り潰してきた。
なかでも“典書”と呼ばれる者たちは、選ばれし幹部。
世界の記録そのものに干渉し、存在を無かったことにする――記録の改竄と抹消を命じる権限を有する、影の書き手たち。
ベルという名の不死の魔女に対する排除命令も、そのひとりが下したものだった。
だが、命を受けた男――セラフは、戻らなかった。
蝋燭の火が、じりじりと細くなってゆく。
広く冷たい石造りの空間の中心に、導師がひとり、静かに座していた。
黒く光を吸うような法衣を纏い、背筋をぴたりと伸ばしたその姿は、まるで影の偶像のよう。
眼差しは揺れる炎の一点に注がれ、まばたきすら惜しむように沈黙していた。
やがて、奥の通路から足音が響く。
ローブの裾を引きずりながら、ひとりの男が現れる。
顔の下半分を覆う仮面の奥から、冷え切った声が漏れた。
典書「……セラフは任務に失敗しました。
不死の魔女の排除も捕獲も果たせず、彼女と共に姿を消しました」
導師は視線を動かさないまま、短く言葉を落とす。
導師「そうか」
その声には、怒りも落胆もなかった。
むしろ、最初からすべてを見通していたかのような――冷たい諦念が滲む。
典書はしばし黙り、視線を伏せる。
やがて、言葉を選ぶように口を開いた。
典書「……セラフは優秀でした。“観測者”の理念に深く従っていたはずです。
あの女に魅入られ、自ら命令を捨てるなど……信じ難いことです」
導師の指先が、わずかに動いた。
それは沈黙を破る代わりの、断罪にも似た動作だった。
導師「……信じる、という行為がすでに不要だ」
その瞬間、一本の蝋燭の芯が弾け、炎がかすかに揺れて消えた。
空間の闇は深みを増す。
導師「我らが従うのは“理”だ。感情も、信仰も排除し、すべての存在を秤にかける。不死の魔女に引きずられ、“慟哭ノ従者”も――その秤から零れ落ちた。それだけのことだ」
その声は、深く、低い。
揺るがず、染まらず、ただ“あるべきこと”を述べる声だった。
まるで、この世界の奥底に沈む真理そのものが口を開いたかのようだった。
石造りの広間に、淡く揺れる燭火の影が、導師の顔を仄かに照らす。
彼の瞳は焦点を持たず、何処とも知れぬ遠くを見据えている。
その姿は人というより、ただ“観測する存在”そのもののようだった。
典書「……セラフは、神と“神に選ばれし者”という虚構を否定するために生きてきたはずです。
それなのに、彼は否定すべき対象に心を傾けた。――それは、信仰への回帰ではないのですか?」
典書の声音は冷静だったが、その奥には疑問と警戒、そしてわずかな動揺があった。
秩序を守る立場でありながら、セラフという異物の残した“痕跡”に言葉を費やすことに、彼自身も困惑していた。
だが、その疑念を言語化し、口にすることが彼の任であると、理解していた。
導師「違う」
その一言は、重く静かに降りた。
否定というより、解答の提示。
間違いを正すのではなく、前提を塗り替えるような力を持っていた。
導師は指先で蝋燭の台を弾いた。
短くなった芯が倒れ、火はすっと消える。
その欠片が、乾いた音を立てて石の床を転がった。
導師「彼は“思考”した。それこそが、最大の過ちだ」
火が消えたことで、広間の空気はより濃密な闇に包まれる。
導師の言葉は、その闇の中で静かに沈みながらも、確かな輪郭を保って響いた。
――思考とは、理から逸れる隙。感情の介在を許す裂け目。
彼の語調が、そう告げているように聞こえた。
典書「……では、処理を。彼も、不死の魔女とともに」
その言葉は淡々としたものだった。
だが、その裏には無数の死を司ってきた記録者の冷徹さがあった。
情報の抹消、それは彼らにとって“処理”と呼ばれる作業の一つにすぎない。
導師「いや。彼らの気配は、すでに我々の観測可能な領域から消えている。
我々が手を下さずとも、あの二人は互いに喰らい合い、すり減り、やがて消えるだろう。
記録から抹消するのは、セラフだけでいい」
導師の声には、すでにあらゆる可能性を見通した者の静けさがあった。
未来すら、すでに過去として語るかのような達観。
そこに憎しみも執着もない。ただ、理があるだけだった。
典書「彼女を残して……よろしいのですか?」
躊躇いがあった。
それは思考ではなく、本能的な警戒だった。
“不死の魔女”という存在の予測不可能性を、記録者として誰よりも理解していたからこそ。
導師「かの“不死の魔女”は、かつて数十年、いや数百年にわたり、すべての記録から姿を消していた。
その在り方そのものが、我々の理の外側にある。
再び現れる確証もない――ならば、放っておけ
始めから存在を認めていなかったのだ、観測されなければそれは存在しない」
導師は、無に近い微笑を浮かべた。
それは感情から生まれたものではなく、あらゆる想定を包含した末に訪れる静寂。
不確定な未来に期待も絶望も抱かない者の、極めて冷ややかな受容だった。
典書は小さく頷き、ローブの内から一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、黒き観測者としてのセラフのすべてが記録されていた。
その存在が歩んだ軌跡、行動、思考、そして――異端への傾倒までも。
典書「……彼女の排除に失敗した者へ、何か伝える言葉は?」
それは、形式的な問いだった。
だが、形式とは記録者にとって絶対の枠。
その枠の中で完結しなければ、記録の正確性が損なわれる。
導師「ない。彼はもう、“存在していない”。
言葉を向けるべき相手すら、そこにはない」
その一言で、あらゆる事象が断ち切られた。
導師はゆるやかに背を向けた。
その歩みは静かで、影すらも音を立てなかった。
まるで、初めからそこに存在していなかったかのように。
その姿は、闇の中に溶けていく。
――この世の記録にすら残ることを、拒むように。