表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/181

2-29



――蝋燭の火が揺らめく。




荒れた石造りの祭壇。その奥には、崩れ落ちた偶像が幾つも並んでいた。

信仰の象徴を踏みにじるように築かれたこの空間こそ、「神なき真理」を求める者たち――黒き観測者の拠点である。



彼らにとって、神とは世界に巣食う「不要な誤認」だ。

祈りも奇跡も、理を歪める毒。信仰とは、思考を腐らせる甘言でしかない。



その思想のもと、観測者たちは各地の神殿に潜入し、聖職者を断罪し、神の痕跡を記録ごと塗り潰してきた。

なかでも“典書てんしょ”と呼ばれる者たちは、選ばれし幹部。

世界の記録そのものに干渉し、存在を無かったことにする――記録の改竄と抹消を命じる権限を有する、影の書き手たち。




ベルという名の不死の魔女に対する排除命令も、そのひとりが下したものだった。


だが、命を受けた男――セラフは、戻らなかった。




蝋燭の火が、じりじりと細くなってゆく。

広く冷たい石造りの空間の中心に、導師がひとり、静かに座していた。



黒く光を吸うような法衣を纏い、背筋をぴたりと伸ばしたその姿は、まるで影の偶像のよう。

眼差しは揺れる炎の一点に注がれ、まばたきすら惜しむように沈黙していた。




やがて、奥の通路から足音が響く。

ローブの裾を引きずりながら、ひとりの男が現れる。

顔の下半分を覆う仮面の奥から、冷え切った声が漏れた。




典書「……セラフは任務に失敗しました。

不死の魔女の排除も捕獲も果たせず、彼女と共に姿を消しました」



導師は視線を動かさないまま、短く言葉を落とす。



導師「そうか」



その声には、怒りも落胆もなかった。

むしろ、最初からすべてを見通していたかのような――冷たい諦念が滲む。



典書はしばし黙り、視線を伏せる。

やがて、言葉を選ぶように口を開いた。



典書「……セラフは優秀でした。“観測者”の理念に深く従っていたはずです。

あの女に魅入られ、自ら命令を捨てるなど……信じ難いことです」




導師の指先が、わずかに動いた。

それは沈黙を破る代わりの、断罪にも似た動作だった。




導師「……信じる、という行為がすでに不要だ」




その瞬間、一本の蝋燭の芯が弾け、炎がかすかに揺れて消えた。

空間の闇は深みを増す。




導師「我らが従うのは“理”だ。感情も、信仰も排除し、すべての存在を秤にかける。不死の魔女に引きずられ、“慟哭ノ従者”も――その秤から零れ落ちた。それだけのことだ」




その声は、深く、低い。

揺るがず、染まらず、ただ“あるべきこと”を述べる声だった。

まるで、この世界の奥底に沈む真理そのものが口を開いたかのようだった。




石造りの広間に、淡く揺れる燭火の影が、導師の顔を仄かに照らす。

彼の瞳は焦点を持たず、何処とも知れぬ遠くを見据えている。

その姿は人というより、ただ“観測する存在”そのもののようだった。




典書「……セラフは、神と“神に選ばれし者”という虚構を否定するために生きてきたはずです。

それなのに、彼は否定すべき対象に心を傾けた。――それは、信仰への回帰ではないのですか?」




典書の声音は冷静だったが、その奥には疑問と警戒、そしてわずかな動揺があった。

秩序を守る立場でありながら、セラフという異物の残した“痕跡”に言葉を費やすことに、彼自身も困惑していた。


だが、その疑念を言語化し、口にすることが彼の任であると、理解していた。




導師「違う」




その一言は、重く静かに降りた。



否定というより、解答の提示。

間違いを正すのではなく、前提を塗り替えるような力を持っていた。



導師は指先で蝋燭の台を弾いた。


短くなった芯が倒れ、火はすっと消える。

その欠片が、乾いた音を立てて石の床を転がった。




導師「彼は“思考”した。それこそが、最大の過ちだ」


 

火が消えたことで、広間の空気はより濃密な闇に包まれる。

導師の言葉は、その闇の中で静かに沈みながらも、確かな輪郭を保って響いた。




――思考とは、理から逸れる隙。感情の介在を許す裂け目。



彼の語調が、そう告げているように聞こえた。




典書「……では、処理を。彼も、不死の魔女とともに」




その言葉は淡々としたものだった。

だが、その裏には無数の死を司ってきた記録者の冷徹さがあった。

情報の抹消、それは彼らにとって“処理”と呼ばれる作業の一つにすぎない。




導師「いや。彼らの気配は、すでに我々の観測可能な領域から消えている。

我々が手を下さずとも、あの二人は互いに喰らい合い、すり減り、やがて消えるだろう。

記録から抹消するのは、セラフだけでいい」




導師の声には、すでにあらゆる可能性を見通した者の静けさがあった。


未来すら、すでに過去として語るかのような達観。

そこに憎しみも執着もない。ただ、理があるだけだった。




典書「彼女を残して……よろしいのですか?」




躊躇いがあった。



それは思考ではなく、本能的な警戒だった。

“不死の魔女”という存在の予測不可能性を、記録者として誰よりも理解していたからこそ。



導師「かの“不死の魔女”は、かつて数十年、いや数百年にわたり、すべての記録から姿を消していた。

その在り方そのものが、我々の理の外側にある。

再び現れる確証もない――ならば、放っておけ

始めから存在を認めていなかったのだ、観測されなければそれは存在しない」




導師は、無に近い微笑を浮かべた。


それは感情から生まれたものではなく、あらゆる想定を包含した末に訪れる静寂。

不確定な未来に期待も絶望も抱かない者の、極めて冷ややかな受容だった。




典書は小さく頷き、ローブの内から一枚の羊皮紙を取り出した。

そこには、黒き観測者としてのセラフのすべてが記録されていた。

その存在が歩んだ軌跡、行動、思考、そして――異端への傾倒までも。




典書「……彼女の排除に失敗した者へ、何か伝える言葉は?」




それは、形式的な問いだった。

だが、形式とは記録者にとって絶対の枠。

その枠の中で完結しなければ、記録の正確性が損なわれる。




導師「ない。彼はもう、“存在していない”。

言葉を向けるべき相手すら、そこにはない」




その一言で、あらゆる事象が断ち切られた。



 

導師はゆるやかに背を向けた。

その歩みは静かで、影すらも音を立てなかった。

まるで、初めからそこに存在していなかったかのように。




その姿は、闇の中に溶けていく。

――この世の記録にすら残ることを、拒むように。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ