2-27
セラフとの狂った夜を越えた朝――いや、窓も扉も存在しないこの密室に、朝と呼べるものがあるのかさえ、もはや曖昧だった。
空間には甘い香が漂い、空気は静謐で、どこか現実から切り離されたような静寂に満ちている。
セラフはゆっくりと、銀の盆に紅茶と焼き菓子をのせ、ベルが横たわるベッドの脇にある小さな机へとそっと置いた。
その手つきは驚くほど丁寧で、優しさに満ちている。まるで壊れやすい宝石を扱うかのように。
そして、穏やかな笑みを浮かべながら、愛おしげに目を細め、囁くように言葉を紡ぐ。
セラフ「ねえ、ベル。……結婚式をしよう?
運命の糸で、僕たちを、僕たちの魂を、もっと――もっと深く、結びつけるんだ。
そうすれば、君はもう僕から逃げられなくなる。永遠に、ずっと、一緒だよ。……素敵だろう?」
それは、愛の名を借りた、歪な契約。
祝福の儀式ではない。
セラフの意志によって成される、魂の鎖。
その結婚とは、呪いに他ならなかった。
ベルはうっすらと瞼を開けた。
身体に残る疼きと、燃え尽きたような倦怠感。
ただ、目を向けることすらできない。
魂の一部が、どこか引き裂かれたような虚ろな感覚だけが、胸に居座っていた。
セラフはそんなベルの沈黙を、拒絶とは受け取らなかった。
セラフ「大丈夫、ちゃんと準備してあるから。
君のドレスも、誓いの言葉も、指輪も……すべて、僕が選んだんだ。
君はただ、笑っていればいい。僕の隣で、僕のためだけに……」
それは、狂気に染まった純粋さだった。
まるで子供が、大切な人形を腕に抱えたまま、決して手放そうとしないように――
セラフ「僕たち、永遠に一緒だよ。ね、ベル……僕が君を守るから。全部、全部、奪わせない。君はもう、僕だけのものなんだ」
その声は優しく、温かく、それゆえに逃げ場がなかった。
ベルは紅茶に口をつけず、膝の上で静かに両手を重ねたまま、セラフの様子をただ見つめていた。
温かな香りが鼻腔をかすめても、唇は動かない。
視線の先、紅茶を用意した張本人は、まるで天使の仮面を被ったまま、無邪気に微笑んでいた。
この闇は短いものだと、自分に言い聞かせてきた。
終わると知っているから、心を殺せた。
人である彼が、いつか燃え尽きるその日まで——そう、自分だけが生き残るその日まで。
――ただの一夜の狂宴にすぎないはずだった。
だが、「魂を結ぶ」という言葉を聞いた途端、
その夜は永遠に閉ざされた檻へと変貌した。
不死である自分と魂を繋ぐということは、
終わることのない生命を共有し、痛みも、狂気も、希望さえも、
全てを分かち合って共に生きるということ。
それは愛ではなかった。逃げ場のない、終わりなき監獄だった。
セラフが手を伸ばし、ベルの頬に指先を這わせる。
まるで宝石を扱うような慎重さで、彼はベルの肌をなぞった。
セラフ「君の中に僕がいるんだ。ねえ、想像して。君がどこへ行っても、誰といても、君の魂には僕が住んでいるんだよ」
セラフの声は陶酔していた。
その声音は愛を囁く恋人のようでありながら、背後には目に見えぬ鎖の音が絡みついていた。
瞳は澄んでいた。
狂気を含んだ、透明な愛の色で。
ひどく綺麗で、ひどく残酷だった。
逃げられない。
殺しても、忘れても、魂が繋がっている限り、
セラフという名の檻はベルを捕らえ続ける。