2-18
セラフ「……もうすぐだ。君の魔力が尽きれば、《死神の揺り籠》が発動する」
囁くような声は甘く、耳を撫でるように忍び寄る毒だった。
セラフ「でも、それじゃ遅いんだ。
君を、触れられない場所へ行かせたくない……だからね――僕の魔力を、君の中に流し込んでいたんだよ」
セラフの瞳が妖しく輝き、湿った吐息と共に唇が歪む。
セラフ「“蛇の法衣”から奪った魔道具……これは、本当に優秀だったよ。
君が魔法を使うたびに、僕の魔力が、君の“内側”へと染み込んでいくんだ……まるで、君が僕を受け入れてるみたいに……」
その声に、ベルの背筋が冷えた。
身体の奥――胸の奥底から下腹部へと、何かが這いずるような異物感。
内側から侵されている。
自分の核に、確かに他者の“魔”が絡みついているのを感じた。
セラフ「感じるんだ……君の中に、僕がいる。脈打ってる……君の鼓動と溶け合って、馴染んで、一つになっていく……ッ」
セラフの声は震えていた。興奮に塗れ、狂気に喰われ、理性の輪郭を擦り切らせるように。
セラフ「ベル……君は知らないだろう?
ずっと、ずっと夢見ていたんだ……君の中に入りたかった。
君を、この手で直接触れたかった……でも叶わなかった。
外側からでは、君には届かなかった……だから……中から触ったんだよ……!」
その声はもはや呟きではなかった。崩れかけた陶酔、渇望、熱病のような執念が、言葉の形を借りて滴り落ちていた。
セラフは手を伸ばしてすらいない。それなのに、ベルの身体が震える。ぞわり、と、皮膚の内側を這うものがある。
――魔力が、すでに彼女の“内側”に触れていた。
セラフ「見てごらん……君の魔力と混ざり合って、僕が広がっていく……このまま、君の意識も、心も、全部、全部……僕の色に染まっていくんだ……ッふふっ、あは……ははは……!」
その笑いは狂っていた。陶酔に濡れ、愛に似た執着と、支配の悦びが入り混じる。
ベル(――まずい)
ベルがそれを自覚した時には、すでに手遅れだった。
普段なら決して通じないはずの精神魔法が、体内から直接、神経を伝って絡みついてくる。
理性の膜を、一枚、また一枚と丁寧に剥がされていく感覚。
意識が、じわりと沈んでいった。
ベル「ほら、ベル……もう抗わなくていいんだ……君は僕の中にいる。僕も君の中にいる……これ以上ない、完全な融合だよ……」
セラフの声は、まるで愛の告白のように甘やかだった。けれどその甘さは、腐りかけの果実のように不穏で、ぞっとするほど異常だった。
その顔が視界の端で揺れる。
頬を紅潮させ、目尻を下げた笑顔は、まるで母の腕に抱かれた赤子のように無垢で――その純粋さが、かえって狂気を際立たせた。
ベル(……まだ、魔力は……残ってる……)
ベルの意識は、深い海の底に引きずり込まれるように沈んでいく。
けれど、魔力は尽きてはいない。
死神の揺り籠が発動しないということは、いまだ無防備のまま、だということでもあった。
意識を奪われた身体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちる――はずだった。
だが、その小さな身体は、地に触れることなく、優しく、丁寧に、セラフの腕に抱きとめられていた。
セラフ「……落ちるには、惜しすぎるよ」
囁きは吐息と溶け合い、耳元を撫でる。
彼の瞳が、すぐ近くで揺れていた。
それは――崇拝と征服と、底の知れない陶酔とで、溢れそうなほどに濡れていた。
まるで聖遺物に触れた巡礼者。あるいは、自らの神を壊してでも抱きしめたいと願う狂信者。
セラフ「君のすべてが欲しかったんだ。
心も、肉体も、魂も……全部、僕だけのものに……ねえ、ベル。これ以上の幸福があると思う?」
その声音には、歪な愛と幸福が満ちていた。
少女を抱く腕に力がこもるたび、彼の精神の輪郭が崩れていく。
恍惚と陶酔が、彼という存在を、別の“何か”へと変えていくようだった――
セラフ「君の中に……僕の魔力が流れてる。
まだ……ほんの少ししか入れてないのに……こんなにも君が僕を感じてる。素晴らしい……本当に、素晴らしい……!」
震える指先が、ベルの頬に触れた。
冷たいようでいて、じんわりと熱を帯びたその接触に、意識のないベルの肌が微かに粟立つ。
まるで温度を測るように、丁寧に、確かめるように、肌の上をなぞる指が首筋へと滑る。
ベルの身体の体温のない人形のような感触に、セラフの身体の奥がざわめいた。
セラフ「この体は……拒絶しない。
君の魔力は、僕のそれと混ざり合い、溶け合ってる。
ふふ、どうして今まで気づかなかったんだろうね……君は、最初から僕のものだったのに」
その囁きは甘く、けれど毒のように脳を痺れさせる。
セラフの唇が首筋に触れる。
愛おしむような、けれど狂気を秘めたその口づけは、血脈に染み込むように深く、静かな執着を刻み込んだ。
セラフ「“死神の揺り籠”が発動しない……魔力が尽きていないから。
僕の魔力で満たしてあげてるからね。こんな抜け道があるなんて、思いついた瞬間、震えたよ」
セラフの声が熱を孕み、心底嬉しそうに弾んだ。
彼の魔力が静かに、しかし確実にベルの魔核に染み渡っていく。
ベルは微動だにしない。
美しくも不気味な静寂が、二人を包む。
セラフ「……もう、君を誰にも渡さない。
見せびらかす必要もない。
僕の手の中で、君を解体して、理解して、完全なかたちに組み上げて……君は永遠に、僕の“研究”であり、“希望”であり、“愛”になる」
彼の足元に、ひとつのナイフが落ちていた。
ベルが護身用に携えていた、装飾のない黒鉄の短剣。
その柄に刻まれた古い刻印――とある村の鍛冶師が、彼女の旅立ちに贈ったものだ。
セラフはそのナイフをちらりと見下ろす。 そして、足で軽く弾いた。
セラフ「君がこれで何を守れるっていうんだい?
君のすべてを貫くのは、こんな刃じゃない。僕の魔力だけだ」
地に転がるナイフは、どこか寂しげに光を反射していた。
セラフは詠唱を始める。
セラフ「――おほぞらを裂きし紅き呪よ、
聲なき願ひを深き闇に鎖せ。
われが血は鍵、われが念は鎖。
命一つ、永久に吾が懐に幽じ込む。
断絶の御名を戴きて、
封ぜよ、幽りの棺――」
その刹那、セラフの周囲に紅く、黒い光が広がる。
転移魔法、さらに幽閉用の封印魔法陣だ。
外界とのすべての接続を断つ、完全なる隔絶の檻の中へと道がつながる。
セラフ「誰にも見つけられない。誰にも奪えない。君のすべては、僕の手の中にある」
淡い光に包まれながら、セラフはベルの身体を抱えたまま、空間の裂け目へと姿を消していく。
そこには、何の気配も残されなかった。
ただひとつ、地面に落ちた黒鉄の短剣だけが、冷たく、静かに、主の帰りを待っていた。