2-15
セラフ「君の魔力……まるで、神が最後に息を吹き込んだ旋律のようだ。
穢すには、あまりにも惜しい。触れるだけで罪に問われそうなほどに、崇高で、脆く、美しい。
けれど――もしその流れに、僕という名の毒がひとしずく溶け込むのなら
それは“穢れ”ではない。調和だよ。運命の、至福の誤算だ」
彼の声は、愛を囁く神父のように柔らかで、そして狂っていた。
世界を壊すための詩。ベルだけに捧げる、歪んだ祈りだった。
ベルの剣が、再び揺れる。
先ほどよりも顕著に、刃の輪郭が歪む。
魔力干渉。
だがこれは“通常の”干渉ではない。
相手の術式による妨害ではなく、魔力そのものの「構造」を染め替えられている。
詩が響く。
セラフ「彼の者の心の色を――闇の奥に沈む、永久凍土のような蒼を
彼の者の世界の温度を――夢と死の狭間で揺れる、微睡の熱を
それを僕の言葉で編んであげよう
君という存在ごと、甘く、静かに、書き換えてあげよう」
低く、甘く、そして酩酊するような狂気に濡れた声。
それは詩などではない――「呪い」だった。
セラフの言葉は、魔力の形をしていた。
柔らかな詩句に姿を変えた侵蝕の手が、ベルの意志の輪郭を曖昧にしていく。
それは、祈りにも似て。
それは、愛にも似て。
けれど、紛れもない――堕落の導きだった。
ベルは目を細め、剣を強く握り直す。
視界が歪む。空気がぬるくなる。足元の地面すら、自身の魔力に合わせて軋む音を立てる。
まるで世界そのものが、セラフの“詩”によって書き換えられているようだった。
彼は戦っていない。
舞っている。
悦びながら、狂いながら、相手の存在そのものを踏みにじりながら。
まるでこの戦いが“愛の劇詩”であるかのように。
論理ではなく、法則ではなく、感情と詩文で世界を上書きする存在。
ベルは、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
魔力干渉で意識が揺らいだのではない。
“自分の魔力”が、自分のものでないように感じられた瞬間だった。
まるで、セラフの手のひらに、自分の命が絡め取られたかのような――そんな直感。
そして、
ベルが剣に込めようとしていた手のひらの魔力が力なく消える。
セラフの詩が、それを“物語の矛盾”として拒絶したのだ。
言葉が、世界を壊す。
陽炎のように揺らめいていた魔法剣の刃すらも、ベルの手の中で淡く瞬き、やがて音もなく霧散した。
わずかに眉をひそめながら、ベルは護身用の短いナイフを抜き放つ。
けれど、それを構える暇すら――与えられなかった。
風が走る。
いや、それは風ではない。
聖騎士として誉れ高かったあの男の“残響”が、今もその剣筋に生きている。
“カンッ”
鋭く乾いた音が、冷たい空気を裂いた。
ナイフは無様に宙を舞い、石畳に跳ね返って、鈍い音を残して転がる。
ベルの手元から完全に奪い去られた武器。
その動作は――まるで、神前に捧げられる儀式のようだった。
優雅で、無駄がなく、美しく。
だからこそ、そこに潜む異常さが際立つ。
かつて、正義の象徴とまで謳われた聖騎士セラフ。
その技は今も美しいままだった。
ただし――信じていたものが、狂気にすり替わっていることを除けば。
セラフは、その一連の動きを終えてなお微動だにせず、優雅な構えのままベルを見下ろす。 そして――口元に浮かべたのは、まるで祈りの後の安らぎのような、神聖さすら漂わせる微笑だった。
セラフ「君は……まだ、剣なんてものにすがるんだね」
その声は静かで、優しく、囁くようにすら聞こえた。
セラフ「でもね、もうそんなものはいらないんだよ。
君が痛みを感じなくていいように、僕が全部、壊してあげる」
ベルは無言のまま後退する。
魔力の流れが乱れている。
魔法がうまく収束しない。
まるでセラフの気配そのものが、空間の法則を侵しているかのようだった。
セラフは一歩、また一歩とゆっくり距離を詰める。
踏み出すごとに、空気が湿り気を帯びて、冷たくなる。
セラフ「怖がらなくていい……全部、僕が赦してあげる
君が隠してきたすべての罪も、過去も、涙も。ほら、見せてごらん。君の“本当”を、僕だけに――」
その声音には、哀れみと愛情が混じっていた。
だが、それは人が人に向ける感情ではない。
異形が、壊れた玩具を拾い上げて笑うような、そんな――異常性に満ちた“愛”だった。