2-12
セラフ「ベル」
その名を呼ぶ声は、祈りにも似ていた。
だが、神へのものではない。
この男にとって、救いも崇拝も、すべてはただ――彼女ひとり。
セラフ「ようやく……ようやく会えた」
ベルの姿を捕らえたセラフは歓喜と興奮に狂いそうになりながら語る。
セラフの「君はやはり、人の形を借りた祝福そのものだ。
汚れた土に咲いた、神の忘れ形見。
誰にも触れられぬ、永劫の夢……」
セラフの足取りは優雅で、狂気すらも気高く見せる幻影のようだった。
その双眸は喜悦に濡れ、何かを崇めるように
祈るように、崇めるように、息を殺してベルを見つめる。
まるで狂信者のように、静かな狂気を湛えて燃えている。
セラフ「……美しい、ベル」
吐息のように名を呼ぶ。
セラフ「言葉など、君には無粋だ。
どれだけ飾っても、君の存在の前では滑稽にすぎない」
ベルは動けなかった。
喉の奥で冷えた息がひとつ凍りつく。
逃げようとすれば脚が動く。
魔法を放つなら詠唱は不要。
なのに――心だけが、どこか深いところで鈍く疼いていた。
セラフ「この世に存在してはならぬほど、美しい。
見る者の価値観を砕き、魂の芯まで焼き尽くす、禁忌の美。
ゆえに、君は隠されなければならない。
この穢れた世界から、徹底的に――永久に」
セラフの声は、歌うようだった。
嘆願でも、命令でもない。
それは“告白”――彼にとっては真理だった。
セラフの「君を目にする資格がある者などいない。
手に入れてよい者など、ましてや存在しない。
……そう、僕を除いては」
セラフが一歩踏み出す。
金属音すら優美に響くのに、ベルの背筋を冷たい刃がなぞったような感覚が走った。
セラフ「君は誰にも理解されなくていい。救われなくていい。
孤独に凍えるその隣に寄り添えるのは、この世界で――僕だけなのだから」
彼の瞳には涙が滲んでいた。
幸福と絶望の境界を曖昧にした、痛みのような光。
セラフ「君が何者でもいい。
死神の血を引こうと、呪われていようと、
世界が君を拒もうと……」
セラフは微笑む。美しく、そして底知れぬほどに壊れた笑みで。
セラフ「さあ、ベル――その名を、魂で愛させてくれ」
――ベルの瞳に、冷たい光が走った。
言葉はなかった。
ただ、明確な拒絶の意思がその目に宿る。
その視線は鋭く、容赦がなかった。
胸の奥底から湧き上がる嫌悪が、その眼差しに色を染めていく。
そして次の瞬間、空間が一瞬、揺れた。
ベルの手元に、黒き刃が浮かび上がる。
死神の魔を宿した、漆黒の細剣――
光を吸い込むような、深い闇の輝き。
魔力がその刃を這い、波紋のように脈動して形を変えていく。
細く鋭いそれは、彼女の意思と共鳴し、まるで呼吸するように動いた。
遠隔で操ることすら可能な魔剣。
彼女の意志が刃を導き、魔力が戦いの律動を奏でる。
その顕現は、まるで静かな死の宣告。
言葉はない。感情も表に出さない。
あるのはただ、剣に宿った“意志”だけ。
ベルの瞳は告げていた。
――応えは「否」だと。
セラフは一歩、また一歩とベルに近づきながら、まるで空虚を撫でるように宙へ手を伸ばした。
セラフ「――君が僕を拒むのは、当然だ」
声には哀しみに似た響きが宿る。
けれど、それは慈しみではなく、ひとつの結論へと向かう、静かな陶酔。
セラフ「君は……優しい。優しすぎるんだ、ベル。
自らを誰かに委ねれば、その存在が汚れてしまうと――
その清らかさが、濁ってしまうと、そう信じているのだろう」
そっと片手が宙をなぞる。まるで目に映るものすべてを抱きしめようとするように。
セラフ「でも、それは違う。違うんだよ、ベル」
彼の声は震えていた。
恍惚と、狂気と、子供のような期待に満ちていた。
その声の底には、確かな「理解の欠如」があった。
セラフ「君は……誰のものにもなれない」
囁きは祈りにも似ていた。
だが、その声色に宿るのは崇拝ではない。
すべてを踏み越えた執着の、美しき成れの果て。
セラフの「世界が君を理解できない。拒絶し、恐れ、歪めてしまう……
けれど、僕は違う」
セラフの瞳が揺れる。歓喜にも似た陶酔と、深く沈む悲哀が交錯する。
セラフの「僕は――僕の思考も、魂も、常識さえも、すべてを壊して君に合わせた。
君に触れるためなら、自我すら手放せる。望むのなら、名も、過去も、祈りさえも」
そして、彼の手が静かに自身の胸へと伸びた。
甲冑の隙間から血が滲むほど、強く叩かれたその場所。
脈打つ音が、空気に伝わる。
セラフ「ここにあるのは、君のために脈打つ命だ、この体も、この声も、この知識も――すべては、君を識るためだけに存在している」
目が合った。
深淵を覗くような赤褐色のその瞳は、崇拝と憎悪、救済と破滅の狭間で燃えていた。
セラフ「人が神を知ろうとして正気を失ったように……僕もまた、君を識るために常識を捨てた。
それが“愛”じゃないというのなら――
愛など、そもそも……狂気の名を借りた幻想だろう?」
セラフのその目に映るベルは、もはや「他者」ではなかった。
彼にとって、ベルは「憧れ」でも「所有物」でもない。
――それ以上に、彼の世界そのものだった。
セラフ「君が拒むのは構わない、君が僕を斬ろうとするのもいい。
けれど、覚えておいてくれ。
君が振るうその刃の先にあるのもまた、君に魅せられた者の“信仰”なのだということを」
笑う。
その微笑は、まるで神殿に捧げる礼拝のように、静かで、気高く、
――そして壊れていた。