2-11
ひたり、ひたりと近づいてくる足音が止んだ。
空気が揺れる。
気配のない空白の中に、鋭い視線が吸い寄せられてくる。
ベルの身体はまだ動かない。
脳が危険を叫んでいるのに、心がそれに追いつかない。
理解されることの恐怖が、手足を凍らせていた。
そんな中。
ぐしゃり、と湿った音が響いた。
異様に伸びた手足、ひび割れた皮膚、粘液を滴らせた赤黒い口――
村を彷徨う魔物が、セラフへと跳びかかっていた。
気配も、殺気もなかった。ただ、そこにいた。
セラフ「――ッ、ああ……!」
セラフが歓喜に震え、笑った。
その目は、恐怖でも敵意でもない、異常なまでの“悦び”に染まっていた。
セラフ「やっぱり……運命だ。運命なんだ。そう、あの日と同じだ……!」
セラフはその身に襲いかかった魔物の頭部を、魔力を込めた剣で一瞬で粉砕する。
音が、爆ぜた。
その一撃は雷のようだった。
魔物の頭部が空中で砕け、残骸が肉片となって地に散る。
空間が軋む。
魔力の波が境界を超え、空気を焼いた。
血に塗れた腕を下ろしたセラフが、静かに呟く。
セラフ「ねえ、ベル。君は――ここにいるだろう?」
それは、問いではなかった。
探している者の声ではない。
確信と、欲望と、異常なほどの熱が入り混じった、“同意”の呼びかけだった。
まるで、最初から答えなど不要だと決めつけるように。
ベルの背筋に、冷たい刃のような戦慄が走る。
ベル(……!)
鼓動が跳ね上がる。
空気が、重くなる。
喉の奥が、粘つくように詰まる。
“見つけられた”。
そう、思わされた瞬間だった。
目の前に姿など見えないはずなのに、視線の熱だけで皮膚が焼けるような錯覚。
名前を呼ばれただけ。
ただそれだけなのに、体が拒絶のようにこわばる。
心が、過去のどんな絶望より深く沈んでいく。
“自分がここにいる”。
それが、こんなにも恐ろしいと思ったことがあっただろうか。
存在を否定されるよりも、見つけられることのほうが、遥かに恐怖だ。
――戦わなければ。
震える指先に、力を込める。
魔法陣も、詠唱も、いらない。
意志が、命を燃やす。
――その時、ベルは気づいた。
まるでこの場面は、かつて彼女がひとりの聖騎士と出会ったあの日の再現だ。
あの日も、教会に魔物が現れ、血が流れ、ひとりの男がその中心に立っていた。
――彼が、あの「慟哭ノ従者」セラフ。
ベル(まさか、人間が……こんなふうに狂えるなんて)
あの日、魔物に蹂躙された村を救えずに心を痛め、
せめて魔物の残党を減らそうと、苦しみの表情を浮かべながら、血にまみれた白い鎧で、ただ静かに戦っていた彼が――
今は、まるで対照的に、魔物を笑顔で斬り伏せ、歓びの声すら漏らしている。
その姿は、戦いではなく、儀式のようにすら見えた。
ベルの胸を締めつけたのは、恐怖だけではない。
自分が、彼を変えてしまったのではないかという
どうしようもない悲しみだった。
罪悪感が、冷たい鉛のように胸に沈む。
それでも。
恐怖はまだ、消えていない。
嫌悪も、逃げたい本能も、確かにそこにある。
だが――
ベルは、その影から一歩を踏み出した。
ただ逃げるだけではいけない。
これは、自分が選んだ道の果て。
狂気に堕ちた彼に、向き合わなければいけない。