2-9
――また、だ。
耳の奥に残る、奇妙な圧迫感。
心臓を撫で回すような、名状しがたい息遣い。
それは風ではない、空気ではない、“誰か”の執着そのものだった。
まるで見えない指先が、背骨をなぞってくるような感触。
逃れられない。振り払えない。
目を逸らしても、心の奥にまで入り込んでくる。
呼吸が浅くなる。喉の奥がざらつく。心臓が、不規則に跳ねた。
かつて戦場で浴びた殺意にも、魔物の瘴気にも似ていない。
これはもっと――濃密で、私的で、ねっとりと絡みつく執着だ。
まるで、皮膚の裏側を撫でられるような不快感。
いや、不快ではない。もっと悪質だ。
ベル(舐められてる……)
この空気のどこかに、あの男がいる。
姿を現さずとも、確かに“欲”が迫ってくる。
名前を呼んだ――ただそれだけで、彼は境界を越えた。
獣じみたそれは、愛や憧れとは異質のもの。 汚濁と支配と自己満足を孕んだ、歪んだ感情の発露。
身体が勝手に反応していた。
背筋が粟立ち、喉の奥が痺れるような恐怖と緊張。
いや、恐怖ではない。
もっと複雑で、言葉にできない混濁。
名を呼んだのは、無意識だった。
ただの記憶の残滓をなぞったに過ぎなかったはずなのに――
その名が世界に放たれた瞬間、空気が変わった。
空気が揺れた。
風がうねった。
空間が、どこか“熱を持った”
――呼ばれた。 彼が、気づいた。
そして今、こちらを“探している”。
ベル(まさか……)
彼女は推測する。いや、理解した。
あの男は、名前ひとつに意味を見出す。
たった一言の声に、存在を懸けてくる。
その異常性に、薄ら寒さが走った。
求めることに一片の理性も節度もない。
それは愛ではない。欲だ。
――男特有の、支配欲と本能を混ぜた、獣の渇き
避けられない。
拒んでも、忘れても、逃げても。
あの執着は理屈を超えて、こちらに向かってくる。
己の肉体の限界すら超えて、痛みも時間も喰らい尽くし、ただ“求める”。
ベルという存在のすべてを、崇め、愛し、犯し、所有しようとする――。
ベル(……狂ってる。気持ち悪い)
静かな思考の内側で、ベルは淡々と嫌悪をなぞった。
何度も経験してきたはずだった。
欲望に濁った目。神聖化された幻想。勝手な崇拝と歪んだ所有欲。
彼女に向けられる手は、いつも一方的で、自分本位で、汚れていた。
けれど――あの男は、違う。
ベル(“深さ”が違う。歪みの“純度”が違う)
あれは狂気の核。
よく似たものを見てきたはずなのに、根本から異質だった。他の誰よりも深く、誰よりも重く、誰よりも――純粋に狂っていた。
理屈ではなく、反射に近い拒絶が、身体の奥から波のように広がる。皮膚の内側を這う感覚。心臓がざわめき、肺が呼吸を忘れかける。
“あれ”の存在そのものが、ベルの内側にある何かを侵食してくる。
冷たい汗が背筋を伝うのを意識の端で感じながら、それでも感情は静かだった。
ベル(お前みたいな存在に、私を壊されるわけにはいかない)
不死であることも、膨大な魔力も、関係なかった。
“あれ”に触れられれば、自分の中にある“自分”が侵される――そんな確信があった。
教会の扉が、軋んだ音を立てて開いた。 長く打ち捨てられていたはずの空間に、異物が足を踏み入れる。