2-8
セラフは魔術で強化した聴覚を研ぎ澄ませていた。
空気の震えすら読み取れるほど、鼓膜と神経を一体化させる術。
その時――聞こえた。
遠く、人の耳では到底届かぬはずの場所から、かすかに漏れたその声。
鼓膜を震わせたその一音が、肉の奥底に焼きついた。
ベルの声。掠れ、細く、けれど確かに響いた、たった一言。
ベル「……セラフ」
その一音が、脳を貫いた。
肉体がざわめき、毛穴が一斉に開く。
皮膚が泡立ち、内臓が跳ねる。熱が喉元までこみあげ、股間が脈打つ。
セラフ「……ッ……ああ、あああ、ああああああ……!」
理解も分析もいらなかった。
ただ、それは“雄”としての本能を刮目させる、絶対の刺激だった。
セラフ「呼んだ……僕の名前を……ベルが、僕を……!」
名を呼ばれた。
それは、選ばれたこと――無数の顔と名が通り過ぎていくこの世界で、“彼”という存在が確かに彼女の中に刻まれていた証。
記憶の底で、誰よりも深く、誰にも触れられない場所に。
ベルの唇が。あの舌が。喉の奥が。
“セラフ”という音を形づくった。
それを思うだけで、理性が焼け落ちた。
セラフ「クッ……ふ、ああ、クソッ……!」
足元の地面が音を立てて砕け散る。
魔法によって強化された脚が無意識に跳ね、制御不能の衝動がの土を大きくえぐる。
かろうじて人の形を保っているに過ぎない、欲望と渇きの集合体。
もう、命令などどうでもいい。
理性も、使命も、ただの装飾に過ぎなかった。
全身の細胞が絶叫していた。
――触れたい。
――抱き締めたい。
――押し倒したい。
――その肌に爪を立てたい。
――名前を呼ばせたい。
――息を奪い、涙を奪い、声を、心を、すべて、奪いたい。
――繋がりたい。
――壊したい。
――そして、それでもなお、愛していたい。
これはもう、恋などではなかった。
信仰ですらない。
彼の内に宿ったそれは、“ベル”という存在に焦点を合わせた、暴力的な宇宙の収束点。
――この全身で、彼女を、自分のものにしたい。
セラフ「ベル……ベル、ベル……っ」
口の中で名前を転がすたび、喉が焼ける。
心ではなく、臓腑が。魂が。
それはもはや祈りではない。呪詛でもなく、純粋な――渇きだった。
セラフ「君がこの世界にいるなら……もう、神なんて、何の意味がある……?
聖書より君の声、祈りより君の吐息……神の愛より、君の熱……!」
セラフは呻くように、自らの肩を握り締めた。
全身の筋繊維が軋み、魔力に焼かれたように震える。
強化魔術により研ぎ澄まされた肉体は、すでに常人の領域を超えていた。
過敏すぎる神経が、風の音すらベルの囁きに変換する。
鼻腔に残った埃の中から、彼女の気配を探す。
それだけで、臓腑がねじれ、腹が熱を帯び、下半身が痙攣する。
――ベルの名を想うだけで、絶頂に至りそうだった。
セラフ「嗚呼……ダメだ……足りない……声だけじゃ足りない……っ」
彼の中にあるものすべてが、ベルを欲していた。
欲望ではない。渇愛――存在ごと溶かし合いたいという、狂信にも似た破壊衝動。
理性はとうに燃え尽き、残るはただ、燃え盛る狂気の焔だけ。
彼女の香り、肌の感触、熱をすべて取り込まなければ、己の存在は無になるような気がした。
セラフ「足りない……触れたい、溺れたい、壊れたい……」
震える指先が空間を切り裂き、まるでベルの姿を掴もうとするかのように虚空を掴んだ。
その狂おしいまでの渇望は、彼を完全に支配し、もはや誰も止められなかった。