2-7
ベルがよく身を隠す場所に、古びた教会を選ぶのには理由がある。
そこにはもう、神などいないと知っているからだ。
祈る者も、懺悔する者もとうに去り、ただ彼らの声の残響だけが、微かな温度となって空間に沈殿している。
かつて神の言葉が響いていたはずのその場所は、いまや天井の一部が崩れ、荒れた床には枯れ葉と埃が降り積もっていた。
だが、荒廃の中にも、なお聖域の名残はあった。
ひび割れた祭壇。
色褪せながらも静かに光を受け止めるステンドグラス。
紫と青の硝子片が、夕暮れの光を受けて歪に揺れ、ベルの頬に幻想的な影を落とす。
彼女はその影の中、祭壇の前に静かに立ち尽くしていた。
まるで、かつてこの地で神に祈った者たちの、朽ち果てた祈声に耳を澄ますかのように。
それは、神を信じていない者の沈黙だった。
ベル「……随分と静かね」
呟いた声が、冷たい石壁に反響する。
この村を徘徊する魔物たちは、彼女に決して近づこうとはしなかった。
魔力の“匂い”が違うのだ。
あまりに異質で、あまりに強く、あまりに“死”に近すぎる。
ベル自身、それを理解していた。
自らが放つこの魔力の本質を。
だからこそ、ここは安全だった。
ベル「……黒き観測者、蛇の法衣。
皆、動いている気配がある。
だから今は……ここでいい」
彼女はゆっくりと祭壇の前に膝をつき、足元に流れる亀裂を指でなぞる。
それはかつて祈りを捧げた者たちが、膝をついた痕跡のようだった。
ベル「誰にもみられることはない……しばらくここに隠れていよう」
それは彼女にとって、ほんの束の間の安息でもあり、嵐の前の静かな待機でもあった。
不意に静寂がさらに深まる。
ひどく静かだった。
廃墟の教会に染み込んだ静寂を塗りつぶすかの沈黙は、今しがたまで吹き抜けていた木枯らしすらも押し殺した。
ベルは古びた祭壇の前に座り、わずかに目を閉じていたが、ふと微かな違和を覚える。
空気の密度が、わずかに変わったのだ。
誰かが、来ている――。
それは足音ではなく、気配。
湿った空気の奥で、音もなく滲む“何か”の存在。
情念のようなものが、距離を越えて這い寄ってくる。
執着、狂気、哀しみ、それに似たもの。
ベルは静かに目を開ける。
この手の気配には、慣れている。
追われることなど、日常だった。
捕まったことも、一度や二度ではない。
磔にされた夜。
魔術の実験台として魔力を削られた日々。
教会の地下で「聖遺物」として捧げられ、何日も光の届かない祭壇に縛られていたことも。
そのいくつかを、今も夢に見る。
骨の髄まで染みついた絶望の記憶が、ふいに背を這い、心臓の奥をひやりと撫でた。
ベルは小さく息を吸い、思わず両腕を抱いた。
寒くはない。
だが、冷たかった。心の奥から這い上がってくるような、古傷の疼き。
れでも、自分は死なない。
だからこそ、人の執着も怨嗟も、限りなく重く、そして滑稽に思えることもある。
けれど――
この気配は、ただの敵意や殺意ではない。もっと、ねじれた感情がある。
ただの妄執。愛を名乗った暴力。神を否定するほどの渇き。
ベル「……セラフ」
口の中で、ひとりごちた。
直接会ったことはない。
だが、その名と異名を聞いたことはある。
“慟哭ノ従者”――追い求めるたったひとりのために、道理を壊す男。
ベル「面倒な相手……」
ベルの声は静かだった。感情の揺れはない。
だが教会の中に広がる空気が、少しだけ張り詰めたものに変わる。
異形の魔物が徘徊するこの廃村に、人が足を踏み入れることなど、あるはずがなかった。
けれど彼は、違う。
魔にすら忌避されるこの地に、まるで祝福の地でも目指すかのように、迷いなく近づいてくる。
――来るのなら、来ればいい。
ベルは視線を上げ、割れたステンドグラスの向こうに滲む月を見つめる。
静寂の中に、胸の奥で微かに疼くものがあった。 それは怒りでも恐れでもない。
ただ、また――厄介な時間が始まるという、淡い憂鬱。