2-5
セラフはゆっくりと目を開けた。
静まり返った部屋。
だが、そこはただの私室ではない。
彼女のために創られた“聖域”であり“楽園”――否、そう呼ぶにはあまりに歪な執着の巣。
膝をついた彼の胸元には、古びた小瓶が吊るされていた。
瓶の中には、一本のラベンダー色の髪。
それは彼に初めて与えられたベルの一欠片。
風化せず、香りすら残したその髪に、セラフの視線が絡みつく。
わずかに唇が綻ぶ。
けれどその笑みには、かつて神に仕えた男の面影など欠片も残っていなかった。
彼は知っている。
あの髪の主、ラベンダー色の少女は――ベルは、もはや人ではない。
死神に祝福された不死の奇跡。
セラフ「死神」
呟く声には、祈りの響きも、畏怖の色もなかった。
ただ、嫉妬――焼け焦げるほどの、狂気じみた嫉妬がその言葉に滲んでいた。
セラフ「選んだのか。
あの髪を、あの肌を、あの瞳を――お前が触れたのか……」
その瞬間、部屋の空気が凍る。
彼の心は、神にすら怒りと殺意を向けていた。
「神も、死神も……何もかも不要だ」
「僕が――僕だけが、彼女を見て、知って、支配する。それ以外は要らない」
長きに渡る信仰の残骸が、ゆっくりと崩れていく。
皮肉にも、今や彼の思想は黒き観測者たちと重なっていた。
“神は不要”――かつて否定したその言葉に、今や最も深く頷いている。
だがその理由は、世界の理に対する抗いでも、啓蒙でもない。
ただ一人の少女のためだけに積み上げられた、私的で、破滅的な憎悪と愛。
セラフは静かに立ち上がった。
その動作ひとつに、滲み出す狂気と歓喜の余韻があった。
床板が軋む。蝋燭の炎が揺れる。
世界は音を潜め、彼の内側だけが異様な高鳴りを奏でていた。
セラフ「……やっと、迎えに行ける」
震える手が、机の上に並べられた品々をなぞる。
それは戦の準備ではなかった。
祈りでも、儀式でもない。
それは、愛のための準備。
歪んだ、血に濡れた、究極の執着という名の愛。
鈍く光る拘束具。
肌を傷つけぬよう内張りされたその内側に、彼は指を差し入れ、確かめるように撫でた。
ふ、と微笑む。優しさにも見えるその笑みは、内から込み上げる陶酔の現れだった。
その隣には、幾度も試作された染料の瓶。
ラベンダー色――彼女の髪を完全に再現するため、錬金術師を拷問し、色彩魔術師を脅し、いくつもの命を使い潰した結果の産物だ。
いまだに本物には届かないが、それでも彼はひと瓶ひと瓶を宝物のように扱う。
セラフ「これじゃない……これでもない……ああ、どうして……」
苛立ちに手が震える。
だが、瓶の奥に吊るされた髪を見れば、また表情が変わった。
胸元の小瓶に触れる。あの――本物の、ベルの髪。
それに頬を寄せるように目を閉じると、そこには興奮と安堵と、決して報われぬ恋情が渦を巻いていた。
セラフ「ベル、君のすべてはここに還ってくる。
僕だけのものになる。そうだろう?」
棚の奥から、彼は一着の衣装を取り出す。
純白の花嫁衣装。
天蓋付きの寝台に丁寧に広げられたそれは、彼の幻想と執念が織り上げた、未来の象徴。
だが、その裾には、いくつもの赤い染み――過去の犠牲者のものか、あるいは未来の予兆か。
セラフはそれを両手で広げ、震える声で、祝福の言葉のように呟いた。
セラフ「きっと……君に、よく似合う。
すべてが終わったら、ここで……永遠に、過ごそう」
視線が宙を彷徨う。
焦点の定まらないその目に、既に現実の枠は存在しない。
ベルはそこにいる。彼の中で、常にいる。 過去の幻が、未来を侵食していく。
そして、壁に貼られた地図に視線を移す。
目撃情報が点在する赤い印。
その一つ、風の街。
そこから二つの川を越え、森を抜けたその先――かつて、ベルと初めて出会った廃村。
セラフ「そこにいるんだろう……ベル」
呟きと同時に、彼の唇がゆるやかに吊り上がる。
瞳には光が宿り、背筋が粟立つほどの歓喜と狂気が混在する。
運命は、すでに決まっている。
彼女はもう、逃げられない――この“楽園”から。