2-4
黒き観測者に身を投じたセラフは、数々の「献身」の見返りとして、幾度かの“褒美”を与えられるようになっていた。
ある日、幹部のひとりが無言で差し出した、小さな黒い箱。
何かが違う。空気が、重い。心臓が、脈打つ。
慎重に蓋を開けると――そこには、一本の髪。
淡く、微かに光を帯びた、ラベンダーの色。
その瞬間、セラフの視界が歪んだ。
音が消え、色が失せ、時間が凍りつく。
ただ、その髪だけが、あの日の記憶のように、確かにそこにあった。
指先で触れる。
震える手で、頬に当てる。
柔らかく、冷たく、儚くて、懐かしい。
ああ、これは間違いなく、“彼女”の在りし日の欠片。
胸が締めつけられる。
崩れていく。崩れていくのが、嬉しい。
頬を濡らす涙が自分のものだと気づいたのは、随分と後になってからだった。
「……ベル」
その名は、祈りのように――いや、呪いのように。
静かに、深く、彼の内に根を張った。
そしてまた、ひとつ理性が剥がれ落ちた。
それからというもの、彼の忠誠はますます“黒き観測者”へと傾いていく。
否、正確には――“ベルへ至る道”として、彼らを利用するようになった。
情報収集の任務に就いたとき、セラフはすでに、己の衝動を抑えきれなくなっていた。
「彼女を見た」と語った村の老婆。
その目に、ベルの姿が映ったという――それだけで、胸の奥から嫉妬と嫌悪が噴き上がる。
“彼女を視た”という事実が、許せなかった。
彼女は、自分のものだ。視線一つすら、他者にくれてやる理由などない。
微笑を浮かべながら、老婆の喉を裂いた。
静かに、静かに。まるで慈しむように。
言い訳など、いくらでも用意できた。
「虚偽の証言だった」「魔力に酔って正気を失った」「敵の残滓が紛れていた」
誰も信じなかったが、誰も咎めなかった。
それは、彼がすでに“慟哭ノ従者”として、黒き観測者の中でも不可侵の存在と化していたから。
神を裏切り、秩序を壊し、なお歓喜に沈む者――その狂気を、誰も止められなかった。
それからというもの、
ベルの名を口にした者。
姿を見たと証言した者。
僅かでもその魔力を感じ取った者――
セラフは、片端から“葬って”いった。
セラフ「これは、浄化だ、彼女を穢すものを排しているだけだ」
そう囁きながら、頬を濡らす血を、まるで聖水のように受け入れた。
ある時、彼は、ベルがかつて滞在していたという廃屋で一夜を明かした。
誰もいないはずのその部屋に、彼女の影を重ねながら。
壁に染みついた、かすかな魔力の残滓。
それに頬をすり寄せ、まるで抱かれるようにして目を閉じた。
香りのない風を、彼女の髪の匂いだと信じ、誰もいない空間に語りかけ、名を呼び、そして――嗚咽した。
――神など、とうに忘れた。
彼の中には、もはや「純粋なもの」しか存在しない。
それは“人間”ではなく、“理”でもなく、“神性”ですらなかった。
彼にとって、純粋とはベルであり、ベルとは信仰そのものだった。
ラベンダー色の髪。
遠い瞳。
冷たくも温かい指先の幻影。
彼の心は、もはや祈りなどではなく、ただ“彼女を想う衝動”そのものとなっていた。