2-3
――ラベンダーの髪。
陽の下ではなく、月の光でこそ輝くその色は、古くから“不吉”とされてきた。
忌まわしき災厄の前兆。死者を呼ぶ夢の色。
だがセラフにとって、それは違った。
天上の花――否、冥府に咲く幻の花。
あるいは、濡れた霧の中で消えていく、手に触れられぬ夢の残滓。
風にたなびき、血の霧に染まりながらもなお、ひとひらの静謐として揺れていた、あの少女の髪。
帰還後、セラフは眠れぬ夜を幾度も越え、記憶の影を追った。
己の目が見たものは幻ではなかったと証明するために。
古の聖典、焼け焦げた魔導書、失われかけた詩歌。
そして、老いた吟遊詩人の口からこぼれた名もなき伝承。
それらを貪るように読み漁り、記し、繋ぎ合わせた先、セラフは、神話の片隅――
誰にも顧みられることのなかった、朽ちかけた一文に辿り着いた。
――薄紫の髪を持つ“穢れなき災厄”
時の果てより来たりて、不滅の死をその身に宿し、命あるすべてに終焉をもたらす
神に存在を許されぬ、永劫の罪人なり――
それは、神々にすら忌まれた、死の化身のような存在。
だがセラフの胸に満ちたのは、畏れではなかった。
それは、名もなき熱。祈りにも似た、狂おしい渇望だった。
彼女の名を知らぬまま、ただ、その幻影を追い続ける日々だった。
夜ごと夢に現れるラベンダーの髪。
目覚めれば、現の世界はすり減り、色を喪っていく。
信仰はもはや、乾ききった器に過ぎず、かつて胸に灯っていた使命感も、今ではただ、遠い記憶の残滓にすぎなかった。
騎士団の同志たちは、口々に言った。
「お前は変わった」
「神への誓いを忘れたのか」
「それは“魔”だ。滅すべき存在だ」
彼は黙して応じた。
だが、心の奥では静かに嗤っていた。
彼らには届かぬ。あの“奇跡”に触れた者の、絶望にも似た渇きの底までは。
――神に仕える者は、世に多い。
――だが、あの“奇跡”に魅せられたのは、世界で自分ただ一人。
やがて、神への不遜が咎とされ、セラフは《純白の盾》より除籍された。
かつて誇りとした聖なる籍も、もはやただの鎖だった。
それを断ち切られたとき、彼の胸にあったのは喪失ではなく、確かな解放。
辿り着いたのは、地下に根を張る異端者の集団――《黒き観測者》。
神を、世界の理を、既知という檻を否定する者たち。
その集会の中央、灯火の揺れる闇の中で、セラフは微笑みながら言った。
セラフ「私は、かつて神を信じていた。だが……神よりも、遥かに尊い存在を見てしまった。
私は、神を殺してでも、彼女を見つけ出す」
その声に宿るものは、狂気か、祈りか――誰にも判別できなかった。
そこで初めて、ある幹部が口にした。
「お前が探しているのは、“ベル”という名の少女だ」
ベル。
その音が空気を震わせ、彼の耳に届いた瞬間、セラフの中で何かが崩れ落ちた。
そして、同時に何かが生まれた。
裂けた魂の奥から、静かに、確かに。
“ベル”――
その名を、幾度も、幾度も心の中で唱える。
祈るように。呪うように。
喉が焼ける。胸が軋む。
だがその痛みすら、甘い。悦びに似た毒。
ようやく得た名。
ようやく、指先が届くかもしれない距離。
もはや、理性も、信仰も、使命も、意味を成さない。
今、彼を突き動かすものは――
ただ、“ベル”という名の祈りだけ。
愛とも呼べぬ、信仰とも違う。
それは、熱であり、呪いであり、神すらも焼き尽くす焔。
……そして、セラフはゆっくりと狂っていった。
その名を抱いて。その影を追って。
堕ちていくことさえ、救いのように。