2-2
始まりは、まだ彼が“聖騎士セラフ”と呼ばれていた頃。
神の御名を掲げ、女神ルクシアの教えを信じて疑わなかった時代。
空は鉛のように重く、腐臭を含んだ風が肌を撫でた。
聖騎士団《純白の盾》――光と救済の女神ルクシアに仕える、神の盾たち。
彼らが踏み込んだその廃村は、もはや人の住む地ではなかった。
血と瘴気に染まった大地。
異形の魔物が巣くい、祈りも焼き尽くされる呪われた地。
セラフは剣を抜いた。
刃は祈りとともに光を帯び、胸には女神の名が灯っていた。
仲間たちの声が、祈りが、神の加護が――彼の背を押す。
だが――
信仰の光など、届かぬ場所だった。
女神の名を叫ぼうと、刃を振るおうと、そこにあったのはただ、
無慈悲な闇と、決して救われぬものたちの呻きだけ。
セラフはゆっくりと、村の教会の扉を押し開けた。
軋む音と共に広がる内部は、荒れ果て、崩れかけていた。
それでもなお、かつてこの場所に満ちていた神を讃える祈りの残響が、空気の片隅に微かに漂っている。
まるで、失われた光が、なお消えきれずに揺れているかのように。
その刹那。
闇の中から、影が躍り上がった。
嘶くような叫びが石壁に反響し、教会全体に忌まわしい瘴気が吹き荒れる。
それはセラフの眼前へ、音もなく、だが確実に襲いかかってくる。
セラフ反射的に剣を構えた、しかしーー
風が、泣いた。
光が、横薙ぎに走った。
空気が割れ、時間が軋む。
魔物の巨体は、声をあげることも許されず、無音のまま真一文字に裂かれ、崩れ落ちた。
「……」
そこに、ひとりの少女が立っていた。
ラベンダーの髪が、まるで世界の喧騒を拒むかのように静かにたなびく。
瞳は、淡い紫に深紅を溶かしたような色に揺れていた。
――あらゆるものに絶望し、なお世界を見つめる者のまなざし。
装備など一切なく、素足を土に汚しながら。
その細い腕に握られていたのは、黒い魔光で形作られた、一振りの刃。
まるで、神に捨てられたこの地に降り立った、もうひとつの“理”のように。
*
セラフ「君は……何者だ?」
言葉は自然に口を突いて出た。
だがその声は、知らず震えていた。
それは恐怖ではない。
――理解を超えた、美しさ。
否、それをも凌駕する“神性”を前にした、敬畏の震えだった。
少女は、答えなかった。
振り返ることもせず、ただ一度だけセラフを一瞥し、静かに歩き出す。
魔物の血で濡れた石床を、足音すら残さずに。
その背に、迷いはなかった。
まるでこの世界の理すら、彼女にとっては取るに足らぬものであるかのように。
――まるで、この世に何の興味もない者の歩み。
セラフは、ただ立ち尽くしていた。
剣を握る手が、わずかに震える。
鼓動がうるさい。痛いほどに胸を打ち、意識の底を揺さぶっていた。
――あれは、神の使いなのか?
祈りの中で幾度も思い描いた、光と救済の化身。
けれど、あの少女は違った。冷たい。儚い。
そして、何よりも――恐ろしかった。
その背に、何かが剥がれ落ちていく音がした。
信仰が。誓いが。騎士としての矜持が。
彼の中で何かが、静かに、決定的に“堕ちた”。
止められなかった。
気づかぬうちに、もう心は――あの少女に、奪われていた。