5-54
赤い警告灯がまだ明滅を繰り返す研究室。
魔導具の心臓部が低く唸り、金属と魔力の焦げた匂いが立ちこめていた。
床に散った魔法陣の光が揺らめき、ノクスとラゼル、二人の影を交差させる。
ノクス「制御核の右側、供給ラインを半分切り替えろ。――そう、そこだ」
ノクスの指示は的確で、短く鋭い。
ラゼルは無言で頷き、指先を走らせた。
彼の掌に宿る魔力が制御盤に流れ込み、波紋のように広がっていく。
ノクスの指先から淡い蒼光が走り、
回路の断線をなぞるように再構築する。
その手際の見事さに、ラゼルは息を呑んだ。
ラゼル(……変わっていない)
沈黙の中で、ラゼルの胸に懐かしい痛みが走る。
ノクス――いや、“カイル”だった頃の彼。
当時から、魔導具の扱いと理論構築の精密さでは誰よりも抜きん出ていた。
無骨なようで繊細、理屈よりも感覚で魔力の流れを掴み取る男。
研究室で、何度その姿に救われたか――。
ラゼルは小さく息を吐き、今はただ目の前の装置に集中する。
ノクスの声が再び飛んだ。
ノクス「魔力流路を五度ずらす。……出力を合わせろ」
ラゼル「了解」
ラゼルは即座に応じ、制御波を調整する。
魔力が共鳴し、赤い光が少しずつ白に近づく。
ノクスとラゼルの制御波が絡み合い、
壊れかけた魔導具の中心で脈動を取り戻していく。
ラゼル(やっぱり……君は、理屈じゃなく“感じている”んだな)
ラゼルは声に出さずに呟いた。
何年経っても、その勘の鋭さは衰えていない。
いや――むしろ、あの頃よりも、深く、静かだ。
ノクス「出力を安定化。……あと一息だ」
ノクスの低い声が、緊張を切り裂いた。
ラゼルは頷き、魔力を注ぎ込む。
白光が一気に強まり、
装置が低く唸りを上げる。
赤い警告灯の明滅が止まり、
静寂の中、魔導具の鼓動だけが部屋を満たした。
ノクスが掌を引き、短く息を吐く。
ノクス「……よし、間に合ったな」
ラゼルは手を止め、胸の奥で小さく呟いた。
ラゼル「……ああ、やっぱり……お前は、すごいよ。カイル……」
ノクスはその声を聞いたかどうか――
ただ、微かに目を細めて頷いた。
ラゼル「次の段階で、供給を上げる。……負荷が高いぞ」
ラゼルの声が、震える装置音の中で落ち着いて響く。
ノクスは短く頷き、掌に魔力を集中させた。
最終工程――出力を安定化させるため、強い魔力を流し込む必要がある。
だが、それは一人の魔力では到底支えきれない量だった。
ノクスが息を吸い込み、呼吸を整えたそのとき、背後で足音が近づく。
ナヴィ「……ノクス、手伝おう」
低く、静かな声。ナヴィが一歩前へ出る。
ノクス「……ああ、助かる」
ノクスはわずかに笑みを浮かべ、視線だけで合図を送った。
ナヴィの掌が装置に触れる。
そこから放たれた氷の魔力が、白い霧のように流れ込み、熱を鎮める冷気が回路を包む。
淡青の光がノクスの蒼光と重なり合い、二つの流れが渦を巻くように融合していく。
ラゼルが制御盤に手をかざし、制御波を安定化させた。
三つの魔力が絡み合い、ひとつの脈動となって装置の中心に収束する。
室内に充満していた焦げたような匂いが薄れ、空気が澄んだ。
低い唸り音が徐々に落ち着き、代わりに、
心臓の鼓動のような一定のリズムが響き始める。
ノクスの額から一筋の汗が落ちた。
ナヴィの手がわずかに震える。
ラゼルは息を止め、装置の数値を見つめる。
――三人の魔力が、完全に共鳴した瞬間だった。
止まっていた何かが、確かに動き出した。
光が落ち着くと、室内に静寂が戻った。
警告音も止まり、ただ魔導具の律動だけが、穏やかな鼓動のように響いている。
魔法陣の赤は完全に褪せ、淡く白い光が床を包んでいた。
寝台の上――ガラスの胸が、ほんのわずかに上下していた。
ミィナは息を呑み、そっとその手を握る。
ミィナ「ガラス……大丈夫、なの……?」
掠れた声に、震える涙の音が混じる。
ラゼルは肩で息をしながら、それでも穏やかに答えた。
ラゼル「ああ。魔力供給が途絶えたから、消費を抑えるためにガラスは動きを止めていただけだ。やがて、目を覚ます」
ノクスは深く息を吐き、掌を離す。
ノクス「……安定した。出力が戻ったな」
ナヴィも静かに頷き、掌に集めていた冷気をゆるめた。
その瞬間――
ガラスが小さなくしゃみをひとつ。
ミィナは一瞬ぽかんとした顔になり、次いで涙を拭いながら笑った。
ミィナ「ナヴィの魔力……寒かったのかな」
ナヴィが眉をわずかにひそめ、ラゼルが小さく息を漏らす。
そして、ノクスもわずかに口元を緩めた。
静けさの中で、微かな笑い声が重なる。
それは奇跡の直後に生まれた――
あまりにも人間的で、やさしい音だった。
ラゼルはノクスたちに向き直り、深く頭を下げた。
ラゼル「……ありがとう。本当に……僕だけでは、ガラスは助けられなかった」
ノクスは首を振る。
ノクス「礼はいらない。……ここに人が少ないのは、俺たちのせいでもある。
森の罠を壊しながら進んできた。ミィナとベルを助けるために」
ナヴィが続けるように言った。
ナヴィ「奴らはもう戻れはしない……そのせいで外の防衛は薄いはずだ」
ラゼルは制御盤に視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
その仕草に、どこかためらいの色が混じる。
ラゼル「……そうか。なら、あの外の異常も君たちの仕業だったわけだな」
言葉の端に、微かな疲労と安堵が滲んでいた。
だが、短い沈黙のあと――
ラゼルは、決意を固めるように顔を上げる。
ラゼル「……ここには、ベルはいない」
ノクスが顔を上げた。
ノクス「……いない?」
ラゼルは息を整え、言葉を紡ぐ。
ラゼル「彼女はこの研究所に来る途中で攫われた。
犯人は――邪神を崇拝する狂信者たちだ」
ナヴィが眉をひそめる。
ナヴィ「……魔法ギルドでも警戒している連中だな。蛇の法衣すら利用する狂信の徒」
ノクスの喉が鳴る。
ノクス「ベルが……そいつらのもとに?」
ミィナはガラスの手を握り締めたまま、唇を噛んだ。
部屋に再び静寂が落ちる。
魔導具の低い律動だけが、微かに時を刻んでいた。
ラゼルはしばらくのあいだ、迷うようにノクスの顔を見つめていた。
その瞳の奥に、まだ確信を持てぬ戸惑いが揺れている。
ラゼル「……カイル。どうして今まで、僕の記憶から――」
ノクスはわずかに視線を伏せ、淡く笑った。
ノクス「俺の名前は、“死神”に預けた。
そうすることで、世界からその名が消えた。
誰の記憶にも、存在にも、残らないようにな」
ラゼルの手が震える。
ラゼル「そんなことを……なぜ」
ノクス「……必要だったんだ」
その短い答えの奥に、言葉にできぬ痛みが滲んでいた。
沈黙が、二人の間を流れる。
ノクスの横顔は、七年前とまったく変わらない。
それを見つめながら、ラゼルは息を詰めた。
ラゼル「……見た目まで、あの頃のままなのか。
まるで、時間の外に取り残されたみたいだ」
ノクス「ある意味、その通りだ。時間の外で過ごしていた」
ラゼルはかすかに笑い、肩の力を抜いた。
ラゼル「理解はできないけど……カイルが言うなら、そうなんだろうな」
二人の間に、ようやく懐かしい空気が戻る。
ほんの一瞬だけ、過去と現在が重なった。
ナヴィの声が、静かに空気を切った。
ナヴィ「狂信者たちの拠点の場所を知っているか?」
ラゼルは少し黙り、棚の奥から古びた地図を取り出した。
指先で森の奥、山脈の麓の集落跡地を指す。
ラゼル「ここだ。……もう、蛇の法衣の救出隊が向かっているかもしれない。気をつけろ」
紙をノクスに手渡す。
ノクスは受け取り、短く頷いた。
ノクス「必ず助ける。――どんな場所でも」
ラゼルはその横顔を見つめ、小さく息を吐く。
ラゼル「……君が言うなら、きっとそうなるだろう」
静まり返った研究室に、しばしの沈黙。
魔導具の低い律動だけが、微かに響いていた。
ミィナ「ミィナも行くよ、もちろん」
ミィナの声に、ラゼルがすぐ反応する。
ラゼル「駄目だ、危険すぎる」
ミィナ「でもベルは今、そこにいる。待ってる」
ミィナの瞳には、恐れではなく、確かな決意が宿っていた。
ノクスは少し黙ってから、静かに言った。
ノクス「……止めても無駄だ」
その口元に、わずかな苦笑。
ラゼルは俯き、絞るように言葉を漏らす。
ラゼル「……本当は、君にも残ってほしい。
ガラスが目を覚ましたとき、君がそばにいてくれれば……」
ミィナはその言葉に、穏やかな微笑みで応えた。
ミィナ「ガラスは、きっと大丈夫。……ラゼルが、いてくれるでしょう?」
ラゼルは答えられず、ただ小さく頷いた。
出発の準備を終え、ノクスたちは扉へ向かう。
ふと、ミィナが振り返った。
寝台の上――ガラスの指先が、ほんのわずかに動く。
その光は、小さく、儚く、それでも確かに“生きていた”。
ミィナの目に、また涙が滲む。
ミィナ「……ガラス、また会えたらいいね」
ラゼルは胸の奥で息を詰めたまま、それを見送った。
ノクスたちが扉を開けると、外の空気が流れ込む。
夜が、ゆっくりと明け始めていた。
白い光が、冷たい廊下を満たしていく。