5-53
そしてその頃――
ノクスたちが向かう先の、ひとつの部屋では。
床下から響く低い振動とともに、体の芯を震わせるような不吉な警告音が鳴り続けていた。
床に刻まれた魔法陣が、ゆらりと淡い光を帯びる。
それは最初こそ穏やかな青白だったが、
次の瞬間、まるで血が滲むように赤く染まり――
耳を裂く警告音が、室内の静寂を貫いた。
ミィナ「……なに、これ……?」
ミィナは思わず身を起こす。
だが、彼女の視線はすぐに寝台のほうへ吸い寄せられた。
ミィナ「ガラス……?」
呼びかけても、少女は微動だにしない。
胸の上下も、まばたきの反応もない。
いつもならミィナの寝姿を真似て、同じように横になるだけ――
眠る必要など、ないはずだった。
それなのに今は、まるで。
眠っているのか、壊れているのか。
どちらともつかぬ静けさが、そこにあった。
胸の奥で、冷たいものが広がる。
指先が震え、息が乱れる。
ミィナ「……ガラス、ねえ、起きて……!」
掠れた声が、赤光に染まる部屋の中で震えた。
焦りが喉を焼き、警報音のリズムと重なる。
そのとき、扉が勢いよく開かれた。
ラゼル「ミィナ!」
ラゼルが飛び込んできた。
白衣の裾を乱し、息を荒げている。
ミィナ「ラゼル、ガラスが!」
ラゼル「魔力供給装置の出力が不安定だ!」
言葉を交わすより早く、ラゼルは制御盤に駆け寄った。
掌で魔力の波を探り、指先を震わせながら装置の状態を確かめる。
ラゼル「出力値が……下がってる? 原因は……どこだ……」
焦りを押し殺すように、ラゼルは乱暴に蓋を外した。
露出した内部には、複雑な魔力回路。
だが、見た目には異常がない。
それが、かえって彼を追い詰めていく。
ラゼル「……まずい、これは……」
声が震えた。
すぐさま棚をあさり、小さな魔石を埋め込んだ首飾り状の魔導具を取り出す。
ラゼル「これをガラスに。携帯型の魔力供給器だ。残りは三つ。魔石が割れたらすぐに交換してくれ。通常なら半日はもつはずだ……」
ミィナは震える手でそれを受け取り、ひとつをガラスの首にかけた。
淡い光がともり、ほんの一瞬、少女の肌に色が戻った気がした。
ミィナ「……ガラス……!」
ミィナの肩が震える。
ラゼルはその横顔を見つめ、唇を噛む。
ラゼル「……すまない。君をここに閉じ込めている立場で、こんなことを頼むなんて」
ミィナ「今はそんなこと、いい!ガラスを助けて……お願い!」
ミィナの叫びが、警報音の合間に響いた。
ラゼルは何かを言いかけ、結局、ただ短く頷いた。
そして再び装置に向き直る。
指先に力をこめながら――
焦燥を押し殺し、冷静さを装っていた。
ラゼルは奥歯を噛みしめ、装置の内部を覗き込んだ。
魔力供給の管を微調整しながら、何度も魔力を送り直す。
けれど、反応は鈍い。
焦り――それは、かつてと同じ光景だった。
──あの夜。
配属されたばかりの冬の夜、警告灯が同じように赤く点滅していた。
あのときも魔導具の異常。
助けを呼ぶ術もなく、彼は自らの魔力をガラスへと流し込み、
他の研究員が戻るまでの時間を、ただ延命に費やした。
だが、今回は違う。
外の罠が破壊され、技師たちは全員、修復に出払っている。
森に侵入者が現れたとの報告――
おそらく、もう誰も戻ってこない。
ラゼルは唇を噛み、喉の奥で掠れた声を漏らした。
ラゼル「あの夜とは違う……僕が直さなければ……」
彼は再び手を伸ばし、制御核の周囲を探る。
ガラスの命を繋ぐ予備装置は、まだ残っている。
学び直した理論もある。
だが、それでも――この装置の根幹には“謎”が多すぎた。
何かが欠けている。
それを補う術を知らぬまま、場当たり的な修復で動かしているだけ。
焦燥が、喉を締めつける。
それは技術者としての焦りではなく、
まるで“誰か”に見放されるような、底のない恐怖だった。
ラゼル「……どこに原因が……」
魔導具の内部をもう一度覗き込む。
エネルギーも回路も、理論上は正常。
だが、少女の体には、魔力が流れ込まない。
ラゼルの手が震える。
視界の端で、警告灯が断続的に赤を閃かせていた。
ラゼル「なぜだ……何が……!」
その叫びは、装置の金属音に呑まれ、
誰の耳にも届かなかった。
そのとき――
ミィナ「ノクス! ナヴィ!」
振り返った瞬間、ミィナの叫びが空気を裂いた。
扉の向こうに、黒衣の男と青銀の影。
二人の姿がそこにあった。
ラゼルの表情が凍りつく。
状況を理解するよりも早く、心臓が跳ねた。
ラゼル「侵入者……?こんな時に……!」
だが、ミィナが泣きそうな声で叫ぶ。
ミィナ「ノクス……! この子、ガラスが……!」
その声には恐怖ではなく、必死な願いがこもっていた。
ラゼルは息を呑む。
ミィナは、自身を助けに来たはずの二人に、
今は腕の中で動かない小さな命を助けてほしいと懇願していた。
ナヴィが低く呟く。
ナヴィ「この子が、ベルの……」
ノクスの目が素早く装置を走査する。
ノクス「この警報は、この子に関するものだな。状況を教えてくれ!」
ラゼルの返答を待つよりも早く、ノクスは駆け寄っていた。
ノクス「助ける理由がないのは分かってる。けど、放っておけない!」
ラゼルは反射的に腕を伸ばし、彼を制止する。
ラゼル「装置に触るな!お前に何が分かる!」
その瞬間、ノクスの瞳が赤光を映し、深く輝いた。
低く、しかし確信に満ちた声が響く。
ノクス「俺は――“カイル”。」
その名を聞いた途端、ラゼルの体が硬直する。
世界から消えたはずの名前。
脳裏の奥底で、封じられていた記憶が閃光のように弾けた。
──あの日。
共に机を囲み、理論を組み上げ、夜を徹して魔導式を書き連ねた時間。
同じ理想を語り合った、あの声。
ラゼル「……カイル……?」
掠れるように、その名が唇から漏れた。
ノクスは答える代わりに、装置の内部を覗き込み、
迷いのない手つきで魔力回路を調べはじめた。
ノクス「この装置から供給した魔力で、あの子の命を保っているんだな?
それなら停止を防ぐための保護構造があるはずだ」
指先から流れ出す微細な魔力が、構造のずれをなぞる。
彼の眼差しは鋭く、まるで長年使い慣れた自らの手足を検分するようだった。
ノクス「……やっぱり。供給経路が二重化されてる。
だが、出力の位相がずれてる――本来、対干渉型の理論で設計した装置だ」
ラゼルは息を呑んだ。
設計図を見ずにそこまで断定できるのは、製作者本人をおいて他にいない。
ノクスは続ける。
ノクス「この構造は俺が作った。
変換した魔力を導線を介さず安定化させるために、双極性魔力回路を組んだはずだ。
……けど、あとから外部補助を増設したせいで流量が反転し、供給が遮断されている」
ラゼルの手から工具が滑り落ちた。
金属音が、警報の喧騒に吸い込まれていく。
ノクス「だいぶ手が加えられてるけど――大丈夫。直せる。」
ノクスの声は静かだが、確信に満ちていた。
赤光がふたりの間を照らす。
ラゼルの喉が鳴った。
ラゼル「……本当に……お前が……」
ノクスは短く頷く。
ノクス「ああ、理論は覚えてる。ラゼル、君が制御波を抑えてくれ。俺が回路を再構築する」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ラゼルの目に迷いが消えた。
焦燥を押し殺し、研究者としての理性が戻ってくる。
ラゼル「……そうだな。詳しい話は後だ。――カイル、力を貸してくれ」
赤い警告灯が脈打つ。
かつての友と、今の自分が重なり合う。
装置の心臓部が、静かに鼓動を取り戻した。