5-52
森を抜けた先に、それはひっそりと建っていた。
外観だけ見れば、時代に取り残された古びた洋館――
けれどノクスには分かっていた。
森に流れる魔力がすべてここへと収束している。
それが《蛇の法衣》の研究所だということを示していた。
扉には鍵が掛かっていなかった。
おそらく内部の職員が、外の罠を修理するために慌ただしく出入りしたのだろう。
ノクスは音を立てぬよう、慎重に取っ手を押し下げた。
軋む音を押し殺しながら、扉が開く。
中は薄暗く、外の霧よりもなお重い空気が漂っている。
壁の燭台には小さな灯が残り、長い廊下の奥にはいくつもの扉が並んでいた。
埃が舞い、乾いた薬品の匂いが鼻を刺す。
ナヴィが低く呟く。
ナヴィ「……妙だな。人の気配がない」
ノクス「外の罠を直しに出たんだろう。俺たちが壊した分だけな」
ノクスは周囲を警戒しながら答えた。
ノクス「俺達と戦ったやつらは、もう戻れはしないが」
ナヴィが無言で頷く。
二人の足音だけが、長い廊下に吸い込まれていった。
ノクス「それにしても静かすぎる」
ノクスは囁くように続ける。
ノクス「こうも警備が手薄だと、逆に不気味だな」
沈黙が返る。
静寂はまるで、生き物のように館の奥へと這っていった。
ふたりは目配せを交わし、静かに奥へと進んだ。
床板はひんやりと湿り気を帯び、足音が吸い込まれるように沈む。
長い年月、陽の光が届かぬこの場所では、空気そのものが眠っているかのようだった。
そのとき――
低い警報音が、建物の奥底から響きわたった。
壁の魔力灯が脈打つように点滅し、光が血の色に変わる。
わずかな振動が床を這い、静寂を震わせた。
ナヴィ「……見つかったのか?」
ノクス「わからない……」
二人は身を低くし、廊下の影に身を潜める。
息を殺して数呼吸。
だが、扉が開く音も、足音もない。
廊下の奥では、ただ警告灯だけが赤く脈動していた。
ノクス「……誰も来ないな。侵入に対する警報じゃないようだな」
ナヴィ「じゃあ、いったい何の警告だ?」
ノクス「装置系統かもしれない。……おそらく内部の異常だ」
言葉にしながらも、ノクスの胸を小さな不安がよぎった。
警報の意味は分からない。
けれど――音の奥で、何かが静かに“崩れていく”気配があった。
そのときだった。
廊下の奥で、扉が勢いよく開いた。
白衣の男が、赤い警告灯の光を浴びて現れる。
焦燥に満ちた表情。
両腕にはいくつもの魔導具を抱え、足取りは荒く、迷うように速い。
ノクスは反射的に息を呑んだ。
――見覚えのある顔だった。
ナヴィが剣に手をかけるのを、ノクスが制する。
ノクス「待て。向こうはまだこちらに気づいていない……それに、あいつは前にこの森で会った」
ナヴィ「ベルに似た少女を連れていたやつか?」
ノクス「ああ。だから――」
ナヴィの声が低くなる。
ナヴィ「……あいつの向かう先には、ベルがいる可能性があるな」
ノクスは静かに頷いた。
ラゼル。
《蛇の法衣》に所属する研究者であり、密偵でもある男。
かつて、カイル――すなわちノクスと同じ道を歩んでいた、数少ない友の一人。
だが今、その記憶は彼の中にない。
ノクスが“カイル”という名を死神へと預けたあの日から、
世界のどこにも、その名を知る者はいなくなった。
赤い光が断続的に廊下を照らす。
ラゼルの背が遠ざかるたび、ノクスの胸に、かすかな痛みが広がる。
――かつての友が、もう自分を知らないという現実。
そして今、その友と“敵”として対峙しなければならないという残酷な現実。
その感覚が、記憶を呼び覚ます。
血のにおいが満ちる森。
その中に倒れた、ひとりの女。
かつて共に戦い、笑い合った友――メラン。
敵としてノクスの前に現れた彼女を、玄宰と共に、自らの手で葬ったあの日。
その瞬間の温度、重み、音。
それらが、今ふたたび胸の奥で疼く。
ノクスは瞼を閉じた。
過去も、現在も、同じ痛みをくり返している気がした。
まるで、罪だけが時を越えて彼を追いかけてくるかのように。
心と記憶が軋む音が、胸の奥で微かに響いた。
ラゼルはノクスたちの存在に気づかぬまま、地下へ続く階段を駆け下りていった。
魔導具が抱える淡い光が、廊下の壁にちらつく。
ナヴィ「……行くか?」
ノクス「ああ」
ノクスは迷いなく頷いた。
赤い光の中、二人は影のようにその後を追った。
階段を下りるにつれ、空気が変わった。
湿った金属の匂い。
足音を吸い込むような、沈んだ静寂。
壁面には魔導具の配線が這い、青白い光が断続的に点滅している。
低い制御音が、地下全体の骨組みを震わせるように響いていた。
ナヴィが小さく息を吐き、低く言う。
ナヴィ「……まるで墓の中に降りていく気分だな」
ノクスは、わずかに目を細めて答えた。
ノクス「――あながち間違いじゃない。
ここで“生かされ”、そして“壊された”ものが、どれほどいるか」
声が壁に吸い込まれて消える。
地下に漂うのは、冷たい鉄の匂いと、かすかな焦げの残り香。
この場所で行われた数多の実験の痕跡が、空気そのものに染みついていた。
ノクスの足取りが、自然と速まる。
心の奥底に、焦りがにじむ。
――こんな場所に、ベルが、ミィナが。
冷えた空気を裂くように、ふたりの靴音だけが階段を打った。
重い沈黙が、深く、深く沈んでいく。