5-51
夜明けとともに、森に淡い光が差し込んだ。
霧が薄れ、木々の間から朝の風が流れ込む。
ナヴィはゆっくりと瞼を開け、まだ微かに残る疲労を感じながら体を起こした。
焚き火の傍らで、ノクスが何かを炙っている。
木の枝の先に巻きつけられているのは、ムカデのような小型の魔物。
黒い殻がぱちぱちと音を立て、焦げた匂いが立ちのぼる。
ナヴィが顔をしかめる。
ナヴィ「……まさか、それを食べる気か?」
ノクスは焚き火の明かりに目を細めながら、淡々と答えた。
ノクス「こいつの毒は熱に弱いから、焼けば平気だ。魔力の回復にいい。お前も食うか?」
ナヴィ「……遠慮しとく」
ナヴィの苦笑に、ノクスは肩をすくめて串を返した。
炎に照らされた横顔は、昨夜よりもわずかに血色を取り戻している。
その様子に、ナヴィの胸にもわずかな安堵が宿った。
ぱち、ぱち、と殻の焼ける音。
焦げた匂いに混じって、ふと――
ノクスの脳裏に、別の焚き火の光景がよぎる。
──トーノと玄宰との旅の夜。
湯を沸かし、薬草と刻んだ果実を入れた。
淡い緑の香りが立ちのぼり、炎の輪の中に二人の影が揺れていた。
ノクスは、枝に刺した魔物の焼き串をひとつ取り上げ、もう一本を差し出す。
ノクス『お前も魔力、かなり使ってるだろう』
トーノ――いや、その時表に出ていた玄宰の顔に、わずかな苦笑が浮かんだ。
玄宰『……私が、そんなものを口にすると思うのか?』
ノクス『思ってない。けど、礼儀として渡す』
ノクスは肩をすくめ、焚き火越しに笑った。
玄宰はしばらく無言のまま、焼け焦げた魔物を見つめていたが、やがてためらうように枝を受け取った。
結局口にはしなかったが、その仕草には確かな“人間らしさ”が宿っていた。
――不器用で、でも確かに“共にいた”時間。
あのときも、今と同じように焚き火の音がしていた。
ノクスはゆっくりと息を吐く。
炎に照らされたムカデの殻がはぜ、光の粉のように弾けた。
ノクス「……懐かしいな」
誰にともなく呟いた声を、ナヴィが聞きとがめる。
ナヴィ「何か言ったか?」
ノクスは首を振り、わずかに笑った。
ノクス「なんでもない」
霧が晴れ、風が森の奥へと抜けていく。
その風の向こうに、遠い日の焚き火の残り香が、かすかに蘇るようだった。
森の奥では、まだ霧が立ち上り、陽光を拒むように揺らめいていた。
それからも、二人の進軍は続く。
進むほどに、森の呼吸が変わっていった。
風が途絶え、枝の軋みさえも吸い込まれる。
一歩ごとに、足元の苔が魔力を帯びて脈打つようだった。
結界の罠はより巧妙になり、ノクスは息を詰めて魔力の流れを探り当てる。
ナヴィはそのたびに氷の刃を走らせ、絡みつく術式を切り裂いていった。
しかし、罠を解けば終わりではない。
時おり《蛇の法衣》の追跡部隊が転移陣を破って現れ、
彼らの詠唱が森の静寂を裂いた。
氷と影が交差し、閃光が闇を染める。
血の匂いと、焦げた魔力の匂いが交ざる。
森の獣たちも異変に怯え、やがて敵味方の区別もなく牙を剥いた。
闇の中、ノクスは何度も治癒の詠唱を重ね、ナヴィの背を支えた。
ノクスの掌は熱を失い、感覚だけが研ぎ澄まされていく。
気づけば、昼夜の区別すら曖昧だった。
霧の色も、風の匂いも、すべてが戦いの残滓と溶け合っている。
時間の感覚が削れ、息をするたびに金属の味が喉を刺した。
──氷と影が交差し、血と魔力が混ざるような時間。
その果て、森に入って三日目の夜。
霧が再び濃くなり、風が凪ぐ。
世界の音が消え、ただ、二人の鼓動だけが残っていた。
──そのときだった。
ナヴィ「……感じるか?」
ナヴィが足を止め、周囲に漂う不自然な魔力の流れに目を細める。
ノクスもすぐに頷いた。
ノクス「この森の中心……あそこだ。」
風が止み、森の音が消えた。
空気の底から魔力の圧が滲み出し、
まるで見えない巨獣が息を潜めているようだった。
木々の隙間、その向こうに壁が見える。
霧に溶け込み、隠されていた建造物。
──《蛇の法衣》の研究所。
ノクスの瞳が、夜の闇の中で淡く光を宿した。
ノクス「……見つけた。」
異様なほどの静寂。
まるで森そのものが息を止めているかのようだった。
罠も、見張りの気配もない。
不気味なほど静かだった。
風のない夜、
森の奥に潜む建物の中では──
警報の音が鳴り響き、
走り抜ける白衣の影があった。
ラゼル。
その手には、淡く光る制御盤の魔導具。
彼の顔には、焦燥と決意が入り混じっていた。
ラゼルは走りながら、壁際の制御盤に手を伸ばした。
魔導具が共鳴し、警報灯が赤く明滅する。
通信の魔法陣が浮かび上がり、複数の反応が瞬時に点滅した。
ラゼル「これは……まさか、あの時と同じ反応……?」
ラゼルの瞳がわずかに揺れる。
その瞬間、警報音がさらに高まり、赤光が彼の頬を照らした。
そしてその音が──
森の静寂を切り裂き、いま二つの時間が重なった。