5-50
霧深い森の奥、空が白み始めた頃。
ミィナが姿を消してから、まだ数刻しか経っていなかった。
夜明け前の森はまだ眠っており、濃い霧が地を這っている。
吐く息さえ白く溶け、湿った空気が肌にまとわりついた。
ノクスは片膝をつき、指先で湿った土をなぞる。
そこには、魔力を帯びた微かな気配,
転移魔導具が作動した痕跡だった。
ノクス「……見つけた」
低く呟いた声は霧の中に溶けた。
魔力の残留を辿り見つけた魔導具は、森の景色に溶け込むように設置されている。
ノクスは息を詰め、周囲の魔力の流れを探った。
森の空気はわずかに歪み、目に見えぬ網のような力が広がっている。
ナヴィ「俺なら、これは見つけるどころか、感じることもできなかっただろうな」
背後から静かな声がした。ノクスは振り向く。
霧の向こうから、青銀の光が歩み出る。
ノクス「……ナヴィ」
銀の竜人の末裔。
氷の気配をまとい、淡い光の中に立つその姿は、夜明けの冷気そのもののようだった。
彼の瞳がノクスの焦りを見抜くように細められる。
ナヴィ「……何をすればいい。俺がいればいけるんだろう?
力技でも何でもやってやる」
ノクスは一瞬、微かに笑みを浮かべてから短く頷いた。
ノクス「ミィナが踏んだのは、《蛇の法衣》が仕掛けた転移罠だ。この森全体に、仕掛けられている。
泡のように無数の転移層が張り巡らされてて、触れればランダムな位置に飛ばされる」
ナヴィは顎に手を添え、霧の流れを読み取るように目を細める。
ナヴィ「飛ばされる範囲は?」
ノクス「そこまで遠くはない。間違いなくこの森の中だ」
ノクスの声に苦みが混じる。
ノクス「おそらく罠が作動すれば、研究所の連中が捕縛に来る」
ナヴィ「だろうな」
ナヴィは低く応じた。
ノクス「だが、あいつらは研究以外の決定権を持たない。
ミィナがすぐに処分されることは……ないはずだ」
ナヴィ「……なら、少しは猶予がある」
ナヴィは静かに剣を抜いた。
刃先に冷気が集まり、淡い霧が白く凍る。
ナヴィ「探知はお前。破壊は俺。――そういう作戦でいいな?」
ノクスの緑がかった碧眼が、霧の中でわずかに光を宿す。
ノクス「ああ、頼む」
二人はわずかに視線を交わし、森の奥へと向き直った。
森の中は、異様な静寂に包まれていた。
木々のざわめきも、鳥の声もない。
ただ、肌にまとわりつくような魔力のうねりと、湿った土の匂いだけがある。
触れたものの魔力を吸い取り、転移させる魔導具の罠。
それを一つずつ破壊しながら、研究所が隠されている森の中心を目指す。
作戦は単純だが、探知には強靭な集中力が要る。
それでも――無作為に転移させられ、魔力を奪われ、捕縛されるよりはずっとましだった。
ノクス「……結界の密度が上がってる」
ノクスの低い囁き。
彼は片手を地に置き、瞳を閉じて魔力の流れを視た。
意識の中に、地表を走る魔力の線が網のように浮かび上がる。
いくつもの層が重なり合い、中心に渦を描く一点。
ノクス「そこだ」
ノクスが指を伸ばすと、ナヴィはすぐに剣を抜いた。
刃が青く輝き、周囲の霧を凍らせる。
一閃。冷気が奔り、地に刻まれた魔導具の術式が凍りついて砕け散った。
ナヴィ「……これで十五箇所目か」
息を整えながらノクスが言う。
ナヴィは周囲を見回し、霧の向こうの暗がりを睨む。
ノクス「きっと、まだ先は長いな」
わずかな沈黙ののち、ナヴィが口を開いた。
ナヴィ「……わざと捕まって研究所に行くってのは、どうだ?」
ノクスは眉をひそめる。
ノクス「おすすめはしない。あそこは《蛇の法衣》の中でも研究に傾倒した連中の巣だ。
魔力も動きも封じる魔導具が、いくらでもある」
そう言ってから、ノクスは少し声を低くした。
ノクス「それに――銀の竜人族の生き残りなんて、連中にとっちゃ最高の“サンプル”だ」
短い沈黙。
ナヴィは唇を引き結び、目を伏せた。
ナヴィ「……わかった。この話はやめよう」
ノクス「分かってくれて助かる。……もう少しで次の魔導具が見つかりそうだ」
淡々と交わされるやり取りの中にも、焦燥が滲む。
ノクスの胸は静かに、しかし速く打っていた。
いくら冷静を装っても、心の奥底では“時間”に追われている。
ミィナを救わなければ――その一念だけが、彼を支えていた。
そして――
ノクス「……!」
足元で、ふっと光が弾けた。
反射的に身を引くより早く、地面に刻まれた魔法陣が眩く起動する。
光が爆ぜ、霧が跳ね、視界が反転した。
ナヴィ「ノクス!」
ナヴィの声。
咄嗟に伸ばされた手が、ノクスの腕を掴む。
ノクス「離すな!」
次の瞬間、二人の身体は閃光に呑まれた。
空間がねじれ、音も光も飲み込まれていく。
残されたのは、霧と静寂だけ――
森は再び、何事もなかったかのように沈黙へと戻った。
転移の閃光が消えたとき、そこにあったのは崩れた祭壇の跡だった。
砕けた石像。焼け焦げた魔導具。
森の深奥に、ぽっかりと空いたような開けた空間。
焦げた土の匂いが、まだかすかに残っている。
ノクスとナヴィは、互いの姿を確かめるように短く視線を交わした。
ナヴィ「……無事か」
ノクス「問題ない。悪い、ナヴィ」
ナヴィ「気にするな。お前にばかり無理をさせている。それより──この場所……」
ナヴィが低く呟き、眉をひそめる。
周囲に漂う空気の“異物感”に気づいたのだ。
森の静寂が一瞬、ざらつく。
その直後、空間がひずみ、転移の光が走る。
霧の中に浮かび上がる黒い影。
黒い法衣に金糸の紋章で描かれた蛇。
「侵入者確認。排除せよ。」
命令が落ちると同時に、詠唱の声がいくつも重なった。
次の瞬間、空気が裂け、無数の魔法の光が飛ぶ。
ナヴィ「下がれ、ノクス!」
ナヴィが前へ出る。
一歩踏み込み、短く息を吐いた。
氷の陣が展開し、地を這うように冷気が走る。
飛来する魔弾が氷壁に当たり、閃光とともに砕け散った。
破片が宙を舞い、光を反射して瞬く。
その一瞬の隙に、ノクスはナヴィに合図を出すと、腰の魔導具を起動する。
淡い光球が放たれ、氷片に乱反射する。
敵の視界が白く染まり、詠唱が途切れた。
ノクス「今だ、ナヴィ!」
声に応じ、ナヴィの姿が風に溶ける。
氷の靴音が地を駆け、剣が弧を描いた。
青白い刃光が、冷気をまとい、切り裂く。
凍てつく風が吹き抜け、悲鳴が残響のように森へ消えた。
やがて、すべてが静まる。
凍りついた地面の上に、黒衣の影が倒れ伏していた。
ノクスは膝をつき、掌を地に当てて魔力の流れを整える。
その指先がかすかに震えていた。
ナヴィも剣を地面に突き立て、息を荒げる。
氷の刃が、戦いの余熱を纏ったまま鈍く光っている。
ノクス「……行こう、ナヴィ。振り出しに戻ってしまったのかもしれない」
ノクスの声は低く、かすれていた。
ナヴィはゆっくりと剣を引き抜き、空を見上げる。
霧の切れ間から、淡い朝光が差していた。
ナヴィ「焦っても意味はない。お前まで倒れたら、誰がミィナたちを助ける」
ノクスは息を整え、短く頷く。
ノクス「……わかってる。けど、少しでも早く」
その声には、焦りよりも決意の色が強かった。
胸の奥を焼く後悔とともに、ただ一つの願いがある。
──必ず、ふたりを取り戻す。
静まり返った森を、ふたりの足音が再び進んでいく。
霧の奥で、まだ見ぬ光を探すように。
それからまた森を進み、やがて夜が来た。
焚き火の炎が、二人の顔を淡く照らしていた。
木々の合間を吹き抜ける風が、灰を揺らし、火花が夜気の中へと消えていく。
疲労が骨の奥まで染みていた。
ノクスは虚ろな目で炎を見つめていた。
あの戦いの後にも、何度か結界に触れ、転移を繰り返した。
だが――その中で、彼は気づいたのだ。
転移罠の発動に伴う魔力の波を読むことで、
この森全体に流れる魔力の“向き”を掴める。
それを辿れば、研究所のある中心部へ近づける。
それを嬉々としてナヴィに話したが、
彼は短く「よくやった」とだけ言い、
焚き火の前に座らせた。
ナヴィ「今は少し休め。……無理に進んでも、森に喰われるだけだ」
ノクスは返事もせず、ただ炎の揺らめきを見つめていた。
赤い光が目の奥で滲む。
燃え立つ焔が、ミィナの髪と笑顔を重ねた。
ノクス「……ミィナ」
小さな呟きが、夜気に溶ける。
ナヴィはそれを聞いていた。
だが、何も言わず、火を見つめたままだ。
しばらくして、低い声で言った。
ナヴィ「焦るな。焦りは、さらに時間を奪う」
ノクスは顔を上げる。
焚き火の向こうで、ナヴィの瞳が揺れていた。
炎を映しながらも、氷のように静かな光。
ナヴィ「お前の焦りは、本気の証拠だ。……だが、焦りすぎれば、見えるものも見えなくなる」
言葉は冷たくも、どこか温かい。
その声の奥には、同じように誰かを守れなかった者の痛みが滲んでいた。
ノクスはしばらく黙ってから、小さく息を吐いた。
ノクス「……分かってる。ありがとう」
ナヴィはわずかに口角を上げ、薪を火にくべる。
ナヴィ「今夜はここで明かそう。夜の森なんて、普通の場所でも危険だ。
休まないなら……お前の足を凍らせてでも、強制的に眠らせる」
ノクス「はは……物騒だな」
ノクスはわずかに笑い、肩を落とした。
ノクス「ありがとう、ナヴィ」
その表情には、ようやく人の温度が戻っていた。
炎がぱちりと弾ける。
夜風が二人の髪を揺らし、森の奥で小動物の気配がかすかに走る。
静寂の中、焦りはまだ胸の奥にくすぶっていた。
けれど、隣にいる仲間の気配が、
その痛みを少しだけ和らげてくれていた。
焚き火の明かりが、二人の影をゆっくりと重ねていた。