5-49
ミィナは、もう何度かこの部屋の中で朝と夜を迎えていた。
最初は息苦しいほど閉ざされた“牢獄”にしか見えなかったこの場所が、時を過ごすうちに、少しずつ違って見えてくる。
積み木の影の形、魔石灯の淡い明かりの揺らめき。
床を走る魔法陣の紋様さえ、どこか柔らかく見えた。
部屋の奥では、今日もガラスが絵を描いている。
けれど、その絵は初日に見た“赤い猫”だけではなくなっていた。
ミィナを描いたあの日から、少しずつ、彼女の描く世界が広がっていたのだ。
森で見た蝶、木や花のようなもの。
形はまだ不格好で、色の配分もぎこちない。
それでも──そこには確かに“変化”があったことに、ミィナはふと気づく。
筆先を見つめるガラスの瞳には、かすかに光が宿っている。
それが感情なのか、学習の結果なのかは分からない。
けれど、少なくとも“無”ではなかった。
ガラス「ミィナ、きく」
小さな声が、沈黙を破る。
ミィナ「うん。お話だね。何がいいかな?」
ガラス「かくれが、きく」
ガラスはいつからか、ミィナに話をせがむようになっていた。
とくに気に入っているのは、空高く木の上に作られたエラヴィアの隠れ家の話。
ミィナにとっても、大切な出会いから始まった思い出の場所だった。
話がひと区切りついたところで、ミィナはふと問いかける。
ミィナ「ねえ、ガラス。ガラスの“一番大切なもの”は、なにかな?」
ガラスは透き通ったラベンダー色の瞳で、まっすぐにミィナを見つめた。
その容姿は、ベルにそっくりだと初めは感じていた。
けれど今は──もうそうは思わなかった。
ガラス「たいせつ、わからない」
ミィナ「うーん、そうだね……。なくしたり、そばにないと寂しくなるもの、かな」
ガラス「ないと、さみしい」
小さく呟くと、ガラスは思いついたように画用紙へと向かう。
その小さな手が、夢中で筆を走らせていく。
ミィナはその姿を静かに見つめていた。
魔石灯の光が、二人の影をやわらかく包み込んでいた。
食事の時間になると、ガラスはミィナの動きを真似た。
スプーンを手にして、同じように口を開ける。
ラゼルの話では、ガラスにとって“食事”は必要のない行為だという。
これまではラゼルが与えなければ何も口にせず、食べてもパンを数口、小さくちぎるだけだった。
それが今では──ミィナを見ながら、スープをすくい、慎重に口へ運んでいる。
動作はぎこちないが、そこに確かな意志が感じられた。
ミィナが「おいしいね」と微笑むと、ガラスも少し間を置いてから同じように言葉を繰り返す。
ガラス「……おいしい」
その小さな声に、ミィナの胸の奥がふっとやわらいだ。
眠るときも同じだった。
ミィナがベッドに身を沈めると、ガラスも隣の椅子に腰を下ろし、まるで“姿勢”まで真似るように目を閉じた。
まるで──“眠る”という行為そのものを学ぼうとしているようだった。
その様子を見つめているうちに、ミィナの中に、静かな温かさが芽生えていく。
恐れや警戒の隙間に差し込む、わずかな光のような温もりだった。
その夜、ラゼルが部屋を訪れた。
魔石灯の光がゆらゆらと揺れ、彼の影を壁に長く伸ばしている。
ラゼル「……少し、話をしてもいいかな」
いつもと変わらない穏やかな声。
ミィナは小さく頷き、ベッドの端に腰を下ろした。
ラゼルは静かに部屋を見渡し、椅子に腰を掛けると、ミィナを真似て横になっていたガラスへ一瞬優しい視線を送った。
そして、抑えた声で言う。
ラゼル「不死の魔女──ベルの消息が、分かったかもしれない」
その名を聞いた瞬間、ミィナの肩がぴくりと揺れた。
胸の奥で何かが跳ねるように痛む。
ラゼルは彼女の反応を確かめるように一拍置き、淡々と話を続けた。
ラゼル「彼女を確保した《蛇の法衣》の部隊が、研究所へ移送する途中で消息を絶ったのは伝えたね。
痕跡から判断するに──襲撃したのは、予想していた通り“邪神を崇拝する教団”だった。
拠点の位置も、ほぼ特定できている」
魔石灯の光がラゼルの頬を照らす。
その表情には、憂いも焦りもなかった。
ただ、理屈だけを口にする研究者の冷静さがあった。
ラゼル「彼らは“不死の魔女”を贄にして、自らの魂を不死へと昇華させようとした。
《慟哭ノ従者》との戦闘で疲弊していた部隊は、おそらく抵抗もできず、まるごと捕らえられたのだろう。
現在は、別の調査班が捜索を進めている」
淡々と、まるで誰か他人の話をしているような声だった。
けれどその口調の奥には、どこか──微かな“愉悦”の響きがあった。
ミィナの手が、布を握りしめる。
唇が震えた。
ミィナ(ベルが……また、辛い思いを……?)
今のベルは不死ではない、命の危険も考えられた。
胸の奥が焼けつくように痛む。
ラゼルの言葉が遠くで響くたび、怒りと恐怖と悲しみが入り混じって、息が詰まりそうだった。
思わず視線を伏せたその時、
すぐそばから、か細い声が落ちた。
ガラス「……いたい?」
ガラスだった。
ミィナの顔を覗き込みながら、首を小さく傾げている。
その一言に、ミィナははっと息を呑んだ。
ミィナ(この子……気づいたの?)
ラゼルも驚いたように目を見開く。
しかしすぐに、その表情は静かに陰りを帯びていった。
ガラスを見つめる彼の瞳には、悲しみとも誇りともつかない光が宿っている。
ミィナ「……大丈夫。ありがとう、ガラス」
ミィナは微笑み、ガラスの頭をそっと撫でた。
ガラスの瞳に映る光が、少しだけやわらいだ気がした。
ミィナ「そうだ」
ミィナは思い出したように、机の上の丸めた画用紙を手に取る。
折れないよう紐で留められたそれを、ラゼルに差し出した。
ミィナ「これ……ガラスが描いたの」
ラゼルは少し驚いたようにそれを受け取る。
ガラスは静かに、彼の方を見つめていた。
ガラス「たいせつ、かいた」
その表情は相変わらず無機質で、
けれど瞳の奥だけが、ほんの少し満たされて見えた。
ラゼルはしばしガラスを見つめ、そして何も言わずに頷き、部屋を後にした。
──その夜。
彼は夜更けの廊下をひとり歩いていた。
灯りの少ない研究所の中、靴音が静かに響く。
ベルを追う部隊の再編、捜索に割いた人員。
そしてこの数日、研究所の外の森では侵入者の気配が絶えない。
その対応にほとんどの職員が出払っており、
今夜、この建物に残っているのはラゼルただ一人だった。
だが問題はない。
森に張り巡らせた無数の罠を突破したところで、外の者がこの場所まで辿り着けるはずがない。
人の気配の薄い研究所は、まるで呼吸をやめたように静まり返っていた。
ラゼルは自室に戻ると、机の上に灯を置き、
ミィナから受け取った画用紙をそっと広げる。
そこに描かれていたのは──
茶色い髪の男が、少し不器用に笑っている絵。
ラゼル自身だった。
思わず息を詰める。
それはガラスが初めて“誰かのために”描いた絵だった。
筆跡は稚拙で、色の滲みも粗い。
けれどそこには、確かな“温度”があった。
ラゼルは椅子に腰を下ろし、長いあいだその絵を見つめ続けた。
瞳の奥で、わずかな笑みが揺れる。
ラゼル「……ガラス」
その名を呼ぶ声は、どこか震えていた。
──その頃。
静まり返ったガラスの部屋では、
床に描かれた魔法陣が、淡い光を帯びはじめていた。
低く、規則的な振動が空気を伝う。
異常を知らせるように、かすかな魔力の波が揺らめく。
ミィナは眠りの中で、眉をわずかに寄せた。
その隣で、ガラスは同じ姿勢のまま、静かに目を閉じている。
その小さな手は夢の中で確かめるように、ほんの少しだけ、ミィナの方へ伸びた。