5-48
ラゼルは扉の前で一度だけ振り返り、「確認することがある」とだけ告げて、部屋を出ていった。
重々しく扉が閉ざされる音が、ミィナの耳の奥に残る。
ここは、地下の閉ざされた部屋。
けれどその印象とは裏腹に、室内はまるで子ども部屋のようだった。
床には複雑な魔法陣。
積み木や絵本が散らばり、壁や床には画用紙が何枚も貼りついている。
窓はなく、天井の魔石灯が淡い光を落としていた。
大きく柔らかなベッドには、白いシーツの上に色とりどりのクッションが乱れている。
ミィナはゆっくりと室内を一巡した。
どこかに“隙”がないかと探したが、扉の魔術刻印も、外界へ通じる窓も見当たらない。
──逃げ出すのは、すぐには無理そうだ。
そんな諦めを胸に、部屋の奥へと視線を向ける。
そこでは、一人の少女──ベルによく似た容姿の“ガラス”が、黙々と絵を描いていた。
透けるような白い肌に、無表情な顔。
ラベンダー色にも似た淡い髪が、静かに揺れている。
その姿が、あまりにも“彼女”に似ていて──
ミィナの胸の奥に、説明のつかない痛みが差し込んだ。
小さな手が、赤い絵の具を筆に乗せ、画用紙の上を滑る。
輪郭は丸く、線は不揃いで、まるで子どもの落書きのようだった。
ミィナはしばらく迷った末に、そっと声をかける。
ミィナ「……猫が好きなの?」
ガラスは筆を止めた。
返事はなく、首をかしげたまま、くるりとこちらを振り向いて言う。
ガラス「……ねこ?ミィナ」
ミィナ「……え?」
戸惑いながら、ミィナは描かれた絵に視線を落とす。
そこにあったのは、赤い髪と猫耳をもつ、小さな少女の姿。
稚拙なタッチで、最初は猫のように見えたその絵は──
よく見れば、自分自身だった。
ミィナ(──ミィナ……?)
自分を描いてくれていた。
それを猫と勘違いしたことに、思わず頬が熱くなる。
ミィナ「……そっか。これ、猫じゃなくて──私、なんだね」
そう言って微笑むと、ガラスはほんの一瞬だけ、わずかに口元を動かした。
それが笑みだったのか、ただの反応なのかは分からない。
けれど、その澄んだ瞳だけが、確かにミィナを映していた。
そしてガラスは再び絵を描き始め、ミィナはその様子を見つめていた。
ちょうどそのとき、扉が再び音を立てて開く。
ラゼルが戻ってきたのだった。
ラゼル「ガラスの絵を見ていたんだね」
穏やかにそう言いながら、ラゼルはミィナへと向き直る。
ラゼル「少し、話しておきたいことがある」
先ほどベルの名を出したときの狂気を帯びた顔とは違い、
今のラゼルは理性的で、静かな落ち着きを纏っていた。
それでもミィナは警戒を隠さず、小さく頷く。
ラゼル「ガラスは、《死神の祝福》を人工的に模して創られた存在だ。……とはいえ、完璧じゃない」
ラゼルは視線だけで、部屋の奥に座るガラスを示した。
ラゼル「命と“不死”の維持には、常時の魔力供給が必要なんだ。
床に刻まれた魔法陣は、そのために組まれている。
だから、この部屋から長時間離れることはできない」
ミィナ「どのくらいの時間なら……?」
ラゼル「一時間程度だね。不死の力を模した再生能力を使えば、それすら短くなる。
長時間の外出には、魔力を補う特製の魔導具を使うが──希少な魔石が必要で、数も少ない。持って半日が限界かな」
ラゼルの声は終始冷静だった。
けれどミィナの胸の内には、複雑な感情が渦を巻いていた。
この部屋の印象から、ガラスもまた“閉じ込められている”のかと思っていた。
けれど、それは少し違うのかもしれない。
この部屋は、彼女を繋ぎ止める牢ではなく
──命を保つために与えられた、優しい籠。
それはまるで、かつてベルが守られていた“死神の揺り籠”を思わせるようで、
ミィナは静かに、胸の奥が締めつけられるのを感じた。
ふと、画用紙を撫でる筆の音が止まっていることに気づき、
ミィナはそっとガラスの方へ視線を向けた。
次の瞬間──その目が、一点の“赤”を捉えて止まる。
絵の具ではない、鮮やかな赤。
ミィナ「……ガラス?」
思わず名前を呼ぶ。
応えるように、ガラスの指先がかすかに震えていた。
彼女は、自分の指を歯で噛みちぎり、滲み出た血を筆に乗せていた。
赤い絵の具が切れた代わりに、それを使っているのだ。
ミィナ「待って、ダメ、それは……!」
ミィナが慌てて声を上げる。
だが、ガラスはまったく痛がる様子を見せなかった。
眉一つ動かさず、表情も変えず──血の色で“赤いミィナ”を描き続けている。
まるで、それが当然のことのように。
ミィナの足元から、冷たいものが這い上がる。
言葉が喉で凍りつき、息さえ忘れそうになる。
ミィナ(……痛みを、感じていないの?)
それとも、感じていても気にしていないだけなのか。
そのとき、横にいたラゼルが小さく息を呑んだ。
一瞬だけ、彼の顔に“悲しみ”の色が差す。
それは止めようともしないのに、見ていられない者の顔だった。
彼はゆっくりと目を伏せ、唇だけでかすかに呟く。
ラゼル「……やめなさい、ガラス」
しかしその声は、制止ではなく祈りのように静かだった。
ガラスは応えず、描き続ける。
ラゼルはそれ以上、何も言わず、ただ痛ましげにその背中を見つめていた。
やがて彼は、静かに口を開く。
ラゼル「……ガラスは、少し欠けている部分があるんだ。痛みを感じないのも、その一つ。
睡眠も、食事も必要ない。
僕がいないときは、この部屋でただ動かず、何もせずに待っていたんだよ」
ミィナは、思わずラゼルの横顔を見つめた。
ミィナ「今、絵を描いているのは?」
その問いに、ラゼルは柔らかく微笑む。
ラゼル「それは君と出会ってからなんだ、ミィナ。
ガラスはずっと、言葉も拙くて、反応を見せるのも僕にだけだった。
でも今は、こうして君を見て、君を描いている」
微笑のまま、彼はほんのわずかに遠くを見るような目をした。
ラゼル「君とガラスが仲良くしてくれること……それが、僕にとって何よりも嬉しいことなんだ」
それだけを残し、ラゼルは再び部屋を出ていった。
静かに閉ざされる扉の音だけが、あとに残る。
部屋に満ちる沈黙の中、絵筆を握るガラスと──その姿をじっと見つめるミィナ。
彼女の指には、すでに傷一つ残っていなかった。
ミィナ(この子は、何を想って、ミィナの絵を描いているんだろう)
ミィナの胸に、ふと小さな感情が芽生える。
警戒と不安の隙間に、じんわりと滲むような、言葉にできないものが。
──けれど、それが優しさなのか、それとも別の何かだったのか。
ミィナには、まだ分からなかった。