5-47
ラゼル「──ベル?」
その名を聞いた瞬間、ラゼルの微笑が凍りついた。
淡く浮かべていた笑みが、わずかに引きつる。
沈んでいた瞳に、毒のような感情が滲む。
それは、明確な──憎悪だった。
だがすぐに、ラゼルはゆっくりと口角を引き上げる。
あまりにも作為的な、乾いた笑み。
ラゼル「……なるほど。ああ、そうか。君たち、あの“魔女”のそばにいたんだね」
声は低く、唇だけが笑っていた。
ミィナは、思わず息を飲む。
ラゼルは何も言わず、ガラスの横をすり抜け、部屋の奥へと向かう。
古びた書棚の前に立つと、一冊の分厚いファイルを迷いなく引き抜き、指先で静かに紙を撫で──そのまま開いた。
ラゼル「……ガラスを創ったのは僕じゃない。
けれど、すべてを見ていた。始まりから、終わりまで」
その声音はどこか夢見がちだった。
現実を語っているはずなのに、まるで過去の幻に酔っているような。
ラゼル「《死神の祝福》──それを、人工的に再現する。
死を拒み、永遠を宿す肉体。
誰もが魅せられた。“神の業”に触れようとしてね。
そして、ガラスは“完成した”。」
たラゼルは、ファイルをトンと机に置く。
乾いた音が室内に響き、ミィナの心臓がかすかに跳ねた。
ガラスはその音に一度だけ顔を上げたが、すぐにまた黙々と絵筆を走らせる。
変わらない、無垢な手の動き。
ガラスが「創られた存在」──
その予想は、ノクスからすでに聞かされていた。
けれど、こうして事実として語られると、
胸の奥に、重い鉛のような感覚が広がっていく。
ミィナは、思わずガラスの方へと視線を向けた。
赤い猫の絵を描き続ける、小さな背中。
静かに筆を動かす様子は、ただの子どもにしか見えない。
──誰かの手で「創られたもの」だという事実が、現実と心の距離を歪めていく。
ミィナの胸に、やるせない痛みが滲んだ。
ラゼル「誰一人、彼女を“本物”とは呼ばなかった」
ラゼルの声が変わった。
言葉に、感情のひび割れが混じっている。
ラゼル「感情が希薄、魂が浅い魔力供給がなければ維持できない……。
だから、失敗作だと。
模倣だと。
……まがい物だと、彼らは口を揃えた」
指先が震えていた。
怒りではない。もっと冷たく、熱を失った場所から込み上げる感情。
ラゼル「でも、僕にはわかっていた。
彼女は、それでも生きようとしていたんだ。
笑えない。話せない。理解も足りない……
それでも、僕の名前を呼んだ。
それは命令でも模倣でもなく、ガラスの意志だった」
ミィナはラゼルの背中を見つめ、言葉を失っていた。
ラゼル「彼女は、まだ“途中”なんだ。
未完成だからこそ、美しい。
完全なものには──成長がない。“痛み”すら、ない」
ラゼルは机を押さえる手に、力を込める。
笑みの奥に、決して触れてはならない色が揺れていた。
ベルを「不老不死の完璧な存在」と語るラゼル。
──それは違う。
ミィナは言葉には出さず、拳を握りしめた。
ベルは傷つき、死にたくても死ねず、千の孤独と痛みを飲み込んできた。
それを「完成された存在」と呼ぶなんて。
どこまで、歪んでいるのか。
ラゼル「“あの女”はガラスとはたしかに違う。
死神に祝福され、不死を得て、完成されてしまった存在。
生きる意味も、生きる道も、必要ない」
言葉の数々が、ナイフのようにミィナの胸を突く。
ラゼル「ガラスは違う。
名前を覚え、言葉を覚え、僕を“呼んだ”。
不完全なまま、それでも……僕だけを見ていた」
その目が、ようやくミィナをとらえた。
燃えさしのような熱が、底に渦巻いている。
ラゼル「──“あの魔女”なんて、もういらない」
凍りつくような口調だった。
ラゼル「彼女がいなければ、ガラスが唯一になれる。
“模倣”ではなく、“最初の存在”としてね」
その狂信めいた声に、ミィナは小さく後ずさる。
ラゼル「あの女に会ったよ、一度。治癒師として身分を隠してね。
不死を失った彼女の姿を、この目で見た」
ラゼルの瞳が細められる。
ラゼル「今こそ──ようやく、叶う時だ」
狂気と歓喜が入り混じったような声。
ミィナは、震える声で問いかけた。
ミィナ「……ベルは、今……ここに……?」
ラゼルはふっと、穏やかな笑みを浮かべた。
その優しさが、いちばん恐ろしかった。
ラゼル「いないよ。残念だけど、ここにはいない」
そして、子どもをあやすような声で、静かに続ける。
ラゼル「不死を失った“魔女”は、ここへ“連れてこられる”はずだった。
《蛇の法衣》でも、特に優秀な部隊が動いていた。
予定していたのは、ガラスとの比較実験──
魂と肉体の可塑性、再生反応の差異、魔力の残響、記憶の断裂……
完璧な資料が取れると、僕は信じていた」
一瞬だけ、ラゼルは沈黙する。
その沈黙が、重く、息苦しかった。
ラゼル「……でもね。消えたんだよ」
その言葉は、空っぽだった。
ラゼル「部隊ごと。何もかも。
痕跡も、反応も、死体も、破片すらない。
まるで──最初から存在しなかったかのように、消えたんだ」
ミィナは、心臓が凍りつくような感覚に襲われる。
ラゼル「原因は……まだ調査中だけど、目星はついてる。
あの女の周りには、いつも“狂い”が寄ってくる。
重力みたいに、異常が引き寄せられるんだ」
ラゼルは、笑っていた。
喜びでも、皮肉でもなく、ただ、静かに。
ラゼル「存在そのものが、世界を歪めている。
だからその歪みに引きずり込まれたんだろう」
その言葉に、ミィナは堪えきれず、俯いた。
ミィナ(ベルが……どこかで……また一人で……)
ラゼルの声がまだ何かを語っている。
けれど、もう耳には入ってこなかった。
ミィナの心は、ノクスが道中で見つけた“争いの痕”へと戻っていた。
剥がれた木の皮、魔力の焦げ跡、そして……無言の沈黙。
ミィナ「ベル……」
その名を呟いたとき、ミィナの胸に走ったのは、確かな痛みだった。
彼女は目を伏せたまま、わずかに息を整え、低く口を開いた。
ミィナ「……少し、空気を吸いたいの。廊下に出てもいい?」
掠れるような声を残しながら、扉へと歩き出す。
ラゼルの返事を待たず、重い扉に手をかけ──
カチリ、と乾いた音が鳴った。
回らない。
力を込めても、扉はびくともしない。
ミィナ「……開かない……?」
戸惑いが滲む声。
その背後から、まるで呼吸のように静かなラゼルの声が降ってきた。
ラゼル「うん。開かないよ」
ミィナの背筋が凍る。
ラゼル「ここはね、“許可された存在”以外には開かないように設計されてる。
この部屋も、廊下も、実験区域全体も──今は君にとって“外”なんだ」
ミィナ「どういう……こと?」
振り向いたその目の前に、すでにラゼルは立っていた。
いつの間に近づいたのかすら、わからないほど音がなかった。
ラゼル「扉は開かない。出入りの権限もない。
……君は今、ここに“滞在中”なんだよ。ガラスの傍に、ね」
その微笑は、どこまでも穏やかで──どこまでも冷たい。
ミィナ「無理に出ようとしたら?」
喉の奥でかすれるような声で、ミィナが問う。
ラゼルはふと目を細める。
ラゼル「出ることはできない。扉は開かない。だから考えても意味がない」
ミィナは、扉に背を預けるようにして立ちすくんだ。
その木の感触すら、生きているかのように冷たく思えた。
ミィナ「ここは牢屋なの……?」
ラゼル「違うよ。ここは“保護区画”だ。
ガラスと君を守るための、優しい場所」
冗談のように。
そして、まるで真実のように。
ラゼルはそう言って、淡く笑った。
ラゼル「彼女がどこにいるかも分からず、外に出ても混乱するだけだろう?
ここにいれば、情報も得られる。ガラスとも触れ合える。
君には、ぴったりだと思うんだ」
ミィナは、怒りと不安と、そして冷たい恐怖に心を押し潰されそうだった。
けれど、ラゼルの声は変わらず穏やかだった。
ラゼル「安心して。必要があれば、衣食住も整えてあげる。
君は、ガラスを“本物”に近づけるために──ここで過ごしてくれればいい」
その言葉が、いちばん異常だった。
ミィナは、胸元で両手をぎゅっと握りしめる。
ノクスの名を呼びたい衝動が、喉元までこみ上げていた。
けれど──今この空間で、それを口に出すことが、何かを壊す気がした。
だから、彼女はただ、黙って目を伏せた。
それでも。
彼の声を思い出すだけで、心の奥に微かな熱が灯った。
──消えていない。
──まだ、終わっていない。