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5-46

ラゼル「彼女には、“おかえり”じゃないね、ガラス」



ラゼルがやわらかな声で言うと、絵筆を握ったまま、ガラスが小さく首をかしげた。



ガラス「おかえり、ちがう?」


ラゼル「そうだね……こういう時は、“こんにちは”って言うといいかな」


ガラス「きれい、こんにちは」



ラゼルの言葉をなぞるように、ガラスが小さく繰り返す。

その瞳は真っ直ぐで、けれどどこか不思議とやさしい色を帯びていた。

ミィナは、そんな二人のやりとりを黙って見つめていた。


先ほどまでのラゼルの冷静さからは想像もできない、静かな温度。

そして何より、最初に森で出会ったときのガラスとの違い。

虚ろで、ただ生きているだけの“器”のようだったその少女の印象が、今は少しだけ、変わって見えた。


ゆっくりと、ミィナはしゃがみこむ。

ガラスの目線に合わせるように、そっと言葉を返した。



ミィナ「こんにちは、ガラスちゃん」


ガラス「……ガラス、ちゃん?」



また、首をかしげるガラス。

その響きに、わずかな戸惑いがにじんでいた。



ガラス「ちゃん、ちがう」


ミィナ「ふふ、ごめんね。わかったよ、“ガラス”」



そう笑って応じるミィナに、ラゼルは視線を向けた。



──優しい声だった。



まるで、ガラスが“普通の子ども”であるかのように。


ミィナが自分を指差しながら名乗る。



ミィナ「ミィナだよ」



ガラスが、その名を口にする。



ガラス「きれい……ミィナ?」


ミィナ「ミィナのこと、“きれい”って言ってくれるの? ありがとう」



そう言って微笑むミィナの横顔を、ラゼルは静かに見つめていた。


ガラスが、初めて“彼以外”の名前を呼んだ。

たったそれだけのことだった。

けれど、それだけで心が揺れた。


これまで、ガラスに認識されていた唯一の存在は、自分だった。

その視線が、いま別の誰かへと向いたことに。

自分の中に、わずかなざわめきが生まれた。

そして、その感情が何であるかを認識した時、ラゼルは少しだけ、戸惑った。


それが何かを、まだ言葉にすることはできなかった。

ただ、静かに。

その小さなやりとりを、

交わされる言葉を、彼は目を逸らさずに見つめていた。



ラゼル「……ガラス。ミィナと、少し話をしてもいいかな?」



ラゼルがそう問いかけると、ガラスは小さく頷くと、新しい紙に向かい、また黙々と色を重ね始める。


静かな筆の音だけが部屋に響いた。


その様子を横目に見ながら、ミィナはふと、ノクスの言葉を思い出す。


ラゼルは、ノクスの「昔の友人」だった。

けれど今、彼はノクスのことを覚えていない。

名前を“死神に預けた”せいで、記憶から外れてしまったのだ。



ミィナ(前に……ノクスが、この森でラゼルさんの名前を呼んだこと、覚えているよね)



覚えているのなら、どんな風にごまかせばいいのか。

ミィナは、ラゼルが口を開くその瞬間まで、どんな言葉を返せばいいのかを頭の中で巡らせていた。


だが、最初の一言は──予想を裏切るものだった。



ラゼル「……ガラスが、僕以外の名前を呼ぶのは、初めてなんだ」



ラゼルは一瞬、言葉を失ったように沈黙し、苦笑のような表情を浮かべる。

それは、ささやかな寂しさと、どこか満ち足りたような表情が混ざった、曖昧な笑みだった。



ラゼル「少し……嫉妬してる。僕にはまだ子どもはいないけど、娘に恋人ができたら、きっとこんな気持ちになるのかもしれないね」



冗談めかした言い方に、ミィナは思わず笑みを返す。

そして、笑顔のまま、静かに言葉を重ねた。



ミィナ「あの子……前に森で出会ったときと、なんだか違うみたい」


ラゼル「うん、そうなんだ。この短い期間で、ガラスは変わったよ」



ラゼルは、そこで一度視線を落とす。

次に顔を上げたとき──その目に宿る光は、まったく違っていた。


まるで冷たい硝子のように、何も映さない目。

彼の雰囲気が、まるで別人のように冷たくなる。



ラゼル「君は……というより、あのとき一緒にいた“あの男”は、何か知っていたんだろう?」



声のトーンが低くなる。



ラゼル「この場所や、僕のこと、ガラスのことも」



ミィナは一瞬、息を呑む。

言葉が、出なかった。

けれどラゼルは、そんな彼女の沈黙を意に介さないまま、微笑みを浮かべて言った。



ラゼル「でも、かまわない」



その笑みは、さっきまでの優しさとはまったく異なるものだった。

口元だけが笑っていて、目はすでに“計算”していた。



ラゼル「君にはこれからずっと、ここにいてもらう」



冷たい視線がミィナに刺さる。



ラゼル「ガラスのためにね」



“ガラス”という名を口にした時だけは、ふっと声にあたたかみが戻る。

けれどそのあたたかさは、ミィナには向けられない。



ラゼル「安心して。君にとっても、悪い話じゃないよ」



ラゼルは、丁寧な口調のまま、淡々と続ける。



ラゼル「この研究所を訪れた部外者が、無事に帰れるとは限らない。

記憶の一部を消す魔導具や薬はまだ不安定でね。

良くて“全部”を失う。悪ければ、脳が壊れる。

そんな状態で外に帰されるくらいなら、ここにいた方がいいと思わない?」



ミィナは、森で再会した時の彼の言葉を思い出す。



ミィナ(あの時も敵意を感じなかった。今も、傷つけられる予感はない。けれど──)



“今は、敵じゃない。”



……そう。敵意など最初からなかったのだ。

敵でも、味方でもない。

それは、どちらの立場としても“価値を測っていない”という意味だった。


冷たい目をしながらも微笑むラゼルを、ミィナはじっと見つめる。

ゆっくりと、言葉を探すようにして──ようやく口を開いた。



ミィナ「……ずっとここに、なんて無理だよ」



声は静かだった。

だが、揺るぎない意志があった。



ミィナ「ミィナは行かないと……ノクスと、ベルが──」



その名を口にした瞬間だった。

ラゼルの顔から、感情が消えた。

口元がひきつるように歪む。



ラゼル「──ベル?」



わずかに震えた声。

それは、怒りか、それとも……恐れか。

瞳の奥に、薄く、深い影が差した。


ガラスの周りには、同じ赤い猫の絵が、いくつもいくつも、ただ静かに重ねられていく。

まるで、ミィナを絵の中に捕らえるかのように。

その手は、誰の声にも動じず、ただひたすらに新たな感情をなぞっていた。

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