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ラゼル「彼女には、“おかえり”じゃないね、ガラス」
ラゼルがやわらかな声で言うと、絵筆を握ったまま、ガラスが小さく首をかしげた。
ガラス「おかえり、ちがう?」
ラゼル「そうだね……こういう時は、“こんにちは”って言うといいかな」
ガラス「きれい、こんにちは」
ラゼルの言葉をなぞるように、ガラスが小さく繰り返す。
その瞳は真っ直ぐで、けれどどこか不思議とやさしい色を帯びていた。
ミィナは、そんな二人のやりとりを黙って見つめていた。
先ほどまでのラゼルの冷静さからは想像もできない、静かな温度。
そして何より、最初に森で出会ったときのガラスとの違い。
虚ろで、ただ生きているだけの“器”のようだったその少女の印象が、今は少しだけ、変わって見えた。
ゆっくりと、ミィナはしゃがみこむ。
ガラスの目線に合わせるように、そっと言葉を返した。
ミィナ「こんにちは、ガラスちゃん」
ガラス「……ガラス、ちゃん?」
また、首をかしげるガラス。
その響きに、わずかな戸惑いがにじんでいた。
ガラス「ちゃん、ちがう」
ミィナ「ふふ、ごめんね。わかったよ、“ガラス”」
そう笑って応じるミィナに、ラゼルは視線を向けた。
──優しい声だった。
まるで、ガラスが“普通の子ども”であるかのように。
ミィナが自分を指差しながら名乗る。
ミィナ「ミィナだよ」
ガラスが、その名を口にする。
ガラス「きれい……ミィナ?」
ミィナ「ミィナのこと、“きれい”って言ってくれるの? ありがとう」
そう言って微笑むミィナの横顔を、ラゼルは静かに見つめていた。
ガラスが、初めて“彼以外”の名前を呼んだ。
たったそれだけのことだった。
けれど、それだけで心が揺れた。
これまで、ガラスに認識されていた唯一の存在は、自分だった。
その視線が、いま別の誰かへと向いたことに。
自分の中に、わずかなざわめきが生まれた。
そして、その感情が何であるかを認識した時、ラゼルは少しだけ、戸惑った。
それが何かを、まだ言葉にすることはできなかった。
ただ、静かに。
その小さなやりとりを、
交わされる言葉を、彼は目を逸らさずに見つめていた。
ラゼル「……ガラス。ミィナと、少し話をしてもいいかな?」
ラゼルがそう問いかけると、ガラスは小さく頷くと、新しい紙に向かい、また黙々と色を重ね始める。
静かな筆の音だけが部屋に響いた。
その様子を横目に見ながら、ミィナはふと、ノクスの言葉を思い出す。
ラゼルは、ノクスの「昔の友人」だった。
けれど今、彼はノクスのことを覚えていない。
名前を“死神に預けた”せいで、記憶から外れてしまったのだ。
ミィナ(前に……ノクスが、この森でラゼルさんの名前を呼んだこと、覚えているよね)
覚えているのなら、どんな風にごまかせばいいのか。
ミィナは、ラゼルが口を開くその瞬間まで、どんな言葉を返せばいいのかを頭の中で巡らせていた。
だが、最初の一言は──予想を裏切るものだった。
ラゼル「……ガラスが、僕以外の名前を呼ぶのは、初めてなんだ」
ラゼルは一瞬、言葉を失ったように沈黙し、苦笑のような表情を浮かべる。
それは、ささやかな寂しさと、どこか満ち足りたような表情が混ざった、曖昧な笑みだった。
ラゼル「少し……嫉妬してる。僕にはまだ子どもはいないけど、娘に恋人ができたら、きっとこんな気持ちになるのかもしれないね」
冗談めかした言い方に、ミィナは思わず笑みを返す。
そして、笑顔のまま、静かに言葉を重ねた。
ミィナ「あの子……前に森で出会ったときと、なんだか違うみたい」
ラゼル「うん、そうなんだ。この短い期間で、ガラスは変わったよ」
ラゼルは、そこで一度視線を落とす。
次に顔を上げたとき──その目に宿る光は、まったく違っていた。
まるで冷たい硝子のように、何も映さない目。
彼の雰囲気が、まるで別人のように冷たくなる。
ラゼル「君は……というより、あのとき一緒にいた“あの男”は、何か知っていたんだろう?」
声のトーンが低くなる。
ラゼル「この場所や、僕のこと、ガラスのことも」
ミィナは一瞬、息を呑む。
言葉が、出なかった。
けれどラゼルは、そんな彼女の沈黙を意に介さないまま、微笑みを浮かべて言った。
ラゼル「でも、かまわない」
その笑みは、さっきまでの優しさとはまったく異なるものだった。
口元だけが笑っていて、目はすでに“計算”していた。
ラゼル「君にはこれからずっと、ここにいてもらう」
冷たい視線がミィナに刺さる。
ラゼル「ガラスのためにね」
“ガラス”という名を口にした時だけは、ふっと声にあたたかみが戻る。
けれどそのあたたかさは、ミィナには向けられない。
ラゼル「安心して。君にとっても、悪い話じゃないよ」
ラゼルは、丁寧な口調のまま、淡々と続ける。
ラゼル「この研究所を訪れた部外者が、無事に帰れるとは限らない。
記憶の一部を消す魔導具や薬はまだ不安定でね。
良くて“全部”を失う。悪ければ、脳が壊れる。
そんな状態で外に帰されるくらいなら、ここにいた方がいいと思わない?」
ミィナは、森で再会した時の彼の言葉を思い出す。
ミィナ(あの時も敵意を感じなかった。今も、傷つけられる予感はない。けれど──)
“今は、敵じゃない。”
……そう。敵意など最初からなかったのだ。
敵でも、味方でもない。
それは、どちらの立場としても“価値を測っていない”という意味だった。
冷たい目をしながらも微笑むラゼルを、ミィナはじっと見つめる。
ゆっくりと、言葉を探すようにして──ようやく口を開いた。
ミィナ「……ずっとここに、なんて無理だよ」
声は静かだった。
だが、揺るぎない意志があった。
ミィナ「ミィナは行かないと……ノクスと、ベルが──」
その名を口にした瞬間だった。
ラゼルの顔から、感情が消えた。
口元がひきつるように歪む。
ラゼル「──ベル?」
わずかに震えた声。
それは、怒りか、それとも……恐れか。
瞳の奥に、薄く、深い影が差した。
ガラスの周りには、同じ赤い猫の絵が、いくつもいくつも、ただ静かに重ねられていく。
まるで、ミィナを絵の中に捕らえるかのように。
その手は、誰の声にも動じず、ただひたすらに新たな感情をなぞっていた。