5-45
ラゼルは、森の中にある《蛇の法衣》の研究所で、魔導具に走る反応の波形に目を留めた。
転移結界の魔力網に、何者かが触れた。
即座に、周囲を映す映像盤を呼び出し、反応のあった地点を拡大する。
──そして、彼の目がわずかに見開かれた。
ラゼル「……彼女は」
映っていたのは、赤い毛並みの獣人の少女。
あの時、森の魔物からガラスを助けた少女
──ミィナだった。
単独で、この森に入り込んでいる。
ラゼルは小さく息を吐く。
この森の一帯には、結界によって張り巡らされた転移罠が無数に設置されている。
それらは侵入者の魔力に反応し、その力を燃料にして短距離の転移魔法を発動させる構造だ。
一度の転移は数メートル程度。
だが、何度も繰り返せば、確実に魔力は削られていく。
やがて魔力が枯渇すれば、身動きもままならず、いずれ森に潜む魔物や職員に発見されるだろう。
──だが今なら、まだ間に合う。
ラゼルは、淡く揺れる水晶盤の中で、少女がひとり、結界に触れながらも進んでいく様子を見つめていた。
赤い髪だけが、冷えた森に溶け込まず、なお鮮やかに浮かんでいた。
ミィナは、まだ完全に罠に呑まれたわけではない。
ラゼルの目が、探知盤に浮かぶ細かな波形をなぞる。
何度も刻まれる転移の痕跡。それは、彼女がすでに複数の罠に触れたことを示していた。
わずかずつ、けれど確実に──
ミィナの魔力は削られていく。
ラゼル(……これ以上は、持たない)
そう判断した瞬間、波形がぴたりと止まった。
魔力反応の途絶。
彼女が移動を止めたのか、それとも──
ラゼルはすぐさま、現地の様子を映す水晶盤へと意識を向けた。
そこには、動きを止めた彼女の姿が映っていた。
大木の根元。
魔力の流れが届かない静域に身を沈め、背を預けるように座り込んでいる。
──判断が早い。
ラゼルはわずかに目を細めた。
あの日と同じだ。
ガラスが森の魔物に襲われた、あの瞬間もそうだった。
彼女は恐れず、的確に状況を読み取り、最も安全な手段を選んだ。
目的は不明。
だが、誤った動きはしない。
あの時も、今も──彼女は状況を正確に見ている。
だから、きっとこれから彼が伝える言葉にも従うだろう。
少なくとも「今は」拒まない。
ラゼルは静かに扉を閉じ、観測を中断した。
そのまま無言で、足音を立てず歩き出す。
彼女のもとへと向かうために。
あの日以来。
ガラスは、絵を描くようになった。
最初はただの落書きだった。
渡された紙に、意味もなく線を引くだけの行為。
衝動的で、目的もなかった。
だが、ある日を境に、それは確かに変わった。
彼女は「描く対象」を得たのだ。
──あの赤い毛並みを持つ、猫の獣人。
森の中で、ガラスを助けたあの日。
炎のような赤い毛並みを持つ彼女の姿を、ガラスは何度も、何度も見つめていた。
ガラス「きれい」
そう、何度も呟きながら、色鉛筆を握る指に力を込める。
それはただの刺激への反応ではなかった。
模倣でも、学習でもない。
ガラスという存在が、初めて自らの意思で“美しい”と感じたものを、繰り返し描こうとした。
ただ、それだけを描こうとした。
それは、奇跡に近い行動だった。
言語も、感情も、人格も──すべてがまだ不安定。
魂の定着すら未完成な“器”の中に、それでも確かな熱が宿った。
その始まりをもたらしたのは、他でもない。
あの少女だった。
そして今、ラゼルは──
森で迎えたミィナを伴い、研究所の地下廊下を歩いていた。
やはり彼女は、自分との同行を選んだ。
その判断に、胸の奥で微かな安堵が生まれる。
しかし、その足取りはあくまで平常を保っていた。
ラゼル自身も、極力平静を装っていた。
ラゼル「ガラスの部屋に行く」
職員にそう告げた瞬間、胸の内に小さなざわめきが走った。
それは、抑えきれぬ期待と、わずかな苦味。
──ガラスは、変わったのだ。
かつては無表情で、何にも反応を示さなかった少女。
今では、自らの手で“何か”を形にしようとしている。
それが、自分ではなく“ミィナ”であったことに、ほんの少し、寂しさを覚えたことも──否定はできなかった。
ラゼルは、静かに鉄の扉に手をかける。
軋む音とともに扉が開かれ、部屋の中へと足を踏み入れる。
ラゼル「ただいま、ガラス」
いつもと変わらぬ挨拶。
けれど、その声には、ほんの僅かに熱が滲んでいた。
ガラスが顔を上げる。
淡い瞳が、まっすぐにラゼルを捉える。
ガラス「……おかえり、ラゼル」
どこか機械的で、それでいて感情が宿ったようにも聞こえる声。
確かに彼女は、彼を“ラゼル”として認識していた。
ラゼル「……ガラスがここまで、何かに夢中になるのは初めてだ」
ラゼルは、部屋の床に散らばる紙の束を見やる。
すべて、同じような絵──
森と、空と、中央に描かれた赤い猫。
ラゼルは本当はね、少し寂しかったんだ」
ぽつりと呟いた。
ガラス「僕にだけ言葉を返して、反応を示さなかったガラスが……
僕以外に、ここまで強い興味を持ったことに」
言葉を結びながら、ラゼルは横目でミィナを見た。
かすかに微笑を浮かべる。
ラゼル「でも、その“対象”である君が……この森に戻ってきてくれて、嬉しいよ」
その言葉に応えるように、
ゆっくりと──ガラスの視線が動く。
ラゼルの横をすり抜けるようにして、まっすぐにミィナを見つめた。
淡い瞳の奥に、鮮やかな赤が映る。
赤い毛並み。それが、彼女にとって“美しさ”の象徴。
ガラス「……きれい、も、おかえり?」
戸惑うように、けれど優しく。
その声には、拒絶も疑念もなかった。
ラゼルは、その呟きを聞きながら、静かに目を閉じる。
──自分の名前ではない。
けれど、彼女の中に“何か”が残っていた。
それでいい。
それで、十分だった。