5-44
ミィナは、縄で軽く拘束されたまま、ラゼルの背を追っていた。
手首に回された麻縄は、ゆるく結ばれているだけ。ほんの形だけの拘束。
それでも彼女は、解こうとはしなかった。
これは、他者の目をごまかすための演出──そう感じ取れたからだ。
ラゼルが先ほど口にした言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
今は、敵ではない。傷つけない。他の誰かに奪われる前に、自分が連れていく。
それは確かに敵意ではなかった。けれど、保護でも、救済でもない。
その声に宿るのは、あまりに温度のない“目的”だけだった。
感情の見えないその瞳。
無駄のない動き。
森の中を進むラゼルの背中を見ながら、ミィナはふと気づく。
彼は、すべてを知っているのだ。この森の構造も、罠の位置も、空気の流れさえも。
どこを踏めば安全で、どこに結界が仕込まれているか。
それらを寸分違わず把握している者の歩き方だった。
やがて、森の木々が開ける。
目の前に現れたのは、苔むした石の門と、蔦に覆われた鉄扉。
その奥に、古びた屋敷が沈黙するように佇んでいた。
ミィナ「……ここは?」
思わず漏れた問いに、ラゼルは首だけをわずかに傾け、短く答える。
ラゼル「知らなくていい」
冷たく切り捨てるような声音だった。
それ以上の説明を拒絶するように、彼は黙って門を押し開け、屋敷の扉へと手をかけた。
中は静かだった。
長く手入れされていない石造りの廊下。
ひんやりと湿った空気。
わずかに漂う薬品と鉄の匂いが、ここが“研究”の場であることを嫌でも意識させる。
奥の応接間のような空間には、白衣の者たちが数名立っていた。
彼らはミィナの姿を見るなり、視線を細める。
「……侵入者か?」
「先ほど魔導具に反応があった個体だな」
「赤毛の獣人か。珍しいな」
その視線は、まるで研究材料を見る目だった。
感情も配慮もない。
ただ、どう処理するかを値踏みするような、冷たいまなざしに思えた。
ラゼルは一歩前に出て、肩を軽くすくめた。
ラゼル「おそらく境界を越えて迷い込んだ旅人だろう」
「まあ、この森は街道に近いからな。だが、見た目が目立つ。何かあれば厄介だ」
「対策はしろよ。記録も残せ」
彼らの声は、ミィナの存在を“生きた個人”として扱ってはいなかった。
ラゼル「もちろん。調査の手間を省くつもりはないさ」
ラゼルはあくまで穏やかに、そして事務的に答える。
ミィナは、彼らの会話を聞き流しながらも、屋敷の奥へと意識を向けていた。
気配。
空気の流れ。
重なり合う魔力の揺らぎ。
──ベルは、この中にいるかもしれない。
その希望が、彼女の背を押していた。
ここは間違いなく、ノクスが語った《蛇の法衣》の研究所。
予定とは違うが、目的地には確かにたどり着いた。
ならば、少しでも情報を。
ラゼル「突然で混乱しているだろう。場所を変えよう」
ラゼルの言葉に、ミィナは小さく頷く。
手首の縄はまだ外されないまま。
だが彼の手が、自分の肩に軽く触れる。
その導きに従って、ミィナは屋敷の奥へと進む。
重い扉の先、石の階段を下りてゆく。
ミィナは、無言のままラゼルの背を見つめていた。
足元に続く階段は、冷たく、無機質だった。
壁には足音だけが反響し、空気はひどく重たい。
あいかわらず、手首の縄はゆるいままだった。だが、その軽さこそが彼女の立場を物語っていた。
だがミィナは、その軽さに甘えることなく、逃げる素振りさえ見せなかった。
ラゼルの行動のすべてが、誰かの目を欺くための演技に思えた。
彼自身が言ったように、「君を傷つけるつもりはない」のだと──そう、信じたかった。
けれど、彼の背中はあまりに静かで、冷静すぎた。
感情の揺れが一切見えない。
いや、正確には──それが“隠されている”と感じた。
何かを抱えているのに、それを誰にも見せないように、完璧に覆い隠しているようだった。
階段を降りきった先、錆びた軋みを残して、鉄の扉が開く。
すぐ前で、白衣を着た職員がふたりを制止した。中に入るには検査が必要だという。
ミィナは何も言わず従った。ここで逆らえば、拘束を強められ、警戒を誘うだけだ。
魔導具を用いた簡易検査が行われ、身体の周囲をなぞるように淡い光が走る。
異常な魔力反応は出なかったようだ。
代わりに、鞄の中の乾燥薬草や護身用の小道具がすべて取り上げられる。
彼らの目には、それらもただの“旅人の荷物”にしか映らなかったのだろう。
けれど、ミィナの胸には、何か大切なものを一つ一つ剥ぎ取られていくような感覚が残った。
魔力ではなく、抵抗する術でもなく──“自由”という名の、わずかな余白までも。
手続きが終わると、ラゼルが淡々と職員に告げる。
ラゼル「ガラスの部屋に行く」
その一言に、ミィナの心臓が一度、大きく跳ねた。
けれど、顔には出さない。ただ、少し呼吸を整えるふりをして、気配を押し殺す。
──“ガラス”。
森で出会った、あの無垢でどこか儚げな少女。
人と同じように見えて、どこかが決定的に違っていた。
ノクスの言葉を思い出す。
──《蛇の法衣》が、ベルの再現を試みていた。不老不死の祝福を持つ、唯一の少女を模倣する実験体。
もしも、あの少女が「ベルの再現」であるなら──本来、組織にとって最も価値ある存在であるはずだ。
だが職員は、気だるげに肩をすくめて言った。
「ガラスはお前の管轄だ。好きにしろよ」
まるで、壊れかけの器を放り投げるような言い草だった。
ミィナは、そのぞんざいな扱いに、はっきりとした違和感を覚えた。
──彼女のことを、誰も気に留めていない。誰も、興味を持っていない。
ラゼルだけが、静かに彼女の名を呼び、その部屋へ向かおうとしている。
それが、かえって不自然だった。
研究所の空気も、おかしい。
もっと慌ただしくて、もっと張り詰めていて当然のはずだ。
もし本当に、ベルがここにいるのなら──
だがこの空間には、緊張も焦燥もない。
研究員たちはまるで機械のように動き、作業の音さえ乾いている。
ここに、ベルの気配は──ない。
それなのに、自分はこうしてここにいて、縄をかけられ、手ぶらで歩かされている。
──ノクスが言っていた「連れて行かれた場所」は、ここではなかったのか?
ならば、ベルはどこに?
問いだけが、答えのないまま沈殿していく。
じわじわと、冷たい不安が胸の奥を染めていった。
それでも、立ち止まることは許されない。
今はまだ、歩き続けるしかない。
ミィナは意識を張り詰めながら、静かにラゼルの背を追った。
その先に、何が待っているのかを知るために。
鉄扉の奥、重たい空気が満ちる廊下を進んだ先に、その部屋はあった。
ラゼルが何も言わずに立ち止まり、扉に手をかける。
開かれたその瞬間、ミィナの足が止まった。
部屋の中央。
そこにいたのは──
あのとき、森の中で出会った少女。
淡いラベンダー色の髪。
どこか空虚な、それでいて傷ひとつない白磁のような肌。
あまりに似ていた。ベルに。
けれど、ベルではない。
まるでその輪郭だけをなぞったような、どこかが決定的に違う淡い存在。
ミィナは、言葉を失った。
ラゼル「ただいま、ガラス」
ラゼルが、かすかに微笑みながら声をかける。
少女──ガラスは、ふと顔を上げた。
その瞳が、まっすぐラゼルを捉える。
ガラス「おかえり、ラゼル」
それは、感情がこもっているようで、どこか機械的だった。
だが確かに、彼の名を呼んでいた。
彼女は、画用紙に何かを描いていた。
色鉛筆で稚拙に書かれたそれは──森の絵。
木々と空。そして、中央に赤い猫が一匹。
その絵を目にした瞬間、ラゼルの表情がわずかに変わった。
今まで抑えていた熱が、滲むように顔に浮かぶ。
ラゼル「……ガラスがここまで、何かに夢中になるのは初めてだ」
ミィナが部屋の中を見渡すと、同じ絵が何枚も、部屋のあちこちに散らばっているのに気づいた。
同じ森の風景。
同じ赤い猫。
何度も、何度も描かれた軌跡。
ラゼル「本当はね、少し寂しかったんだ」
ラゼルがぽつりと呟く。
ラゼル「僕にだけ言葉を返して、反応を示さなかったガラスが……僕以外にここまで強い興味を持ったことに」
視線だけをミィナへと向けて、ラゼルは微笑んだ。
ラゼル「でも、その“対象”である君が、この森に戻ってきてくれて、嬉しいよ」
その言葉を聞いたとき、ミィナは悟った。
この男は、優しさで自分を連れてきたのではない。
保護でも、共感でもない。
彼の価値基準において、ミィナは“必要”だった。
それだけだ。
ミィナの心のどこかで、カチリと何かが冷めていく。
口を開きかけたが、結局、何も言葉が浮かばなかった。
ガラスは再び画用紙へと視線を落とし、赤い猫の耳を丁寧に塗り重ねていた。
まるで世界にはそれしか存在しないかのように、静かに──けれど確かな意志で。