表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
306/316

5-43

ミィナが森の境界を越えた、その瞬間だった。


足元からふっと支えが消えたような感覚。

身体が空に放り出されたかのような浮遊感に、思わず息をのむ。


地面は崩れ落ち、風はぴたりと止み、代わりに耳鳴りのような重低音が頭蓋の奥を震わせてくる。

目を見開いたまま、無意識にノクスの方へ振り返ろうとした。けれど、それはもう遅かった。

視界の中で、ノクスの姿が不自然に引き伸ばされていく。


叫んでいる──口の形からそうわかった。でもその声は、まるで深く凍った湖の底から聞こえるように、異様に歪んでいた。



ミィナ「ノ……ク、ス……?」



その名を呼ぶよりも先に、視界が波打った。

ぐにゃりと、世界が歪む。

色彩が反転し、光と影がぐるりと一回転する。

現実の輪郭が溶け、音も匂いも手触りもすべてが、一瞬にして弾け飛んだ。



──そして次の瞬間、ミィナの足は、森の入り口とは異なる色の土を踏んでいた。



気がつけば、そこは深い森の中だった。

頭上を覆う枝葉は幾重にも重なり合い、わずかに白み始めた空をすっかり遮っている。


風も吹かず、鳥のさえずりもない。

虫の羽音すら聞こえない、静謐というよりは“息を潜めた沈黙”があたりを包んでいた。



──ここはどこ……?



空の色も、空気の匂いも先ほどとはどこか違って感じられる。

だが、何よりもはっきりしていたのは、「自分が罠に嵌められた」という確信だった。


ミィナは膝をつき、深く息を吐く。

浮遊するような感覚に囚われた直後、ノクスが何かを叫び、手を伸ばそうとしていたことは覚えている。

けれど、ほんの一歩早かった。彼の警告よりも先に、境界を越えてしまった。



ミィナ「……ごめん、ノクス」



誰にも届かない声で、小さくそう呟いた。

ベルを想うあまり、焦ってしまった。

助けたいという気持ちが先走り、冷静さを欠いた。

それが結果として、自分を孤立させてしまったのだ。


けれど、いつまでも悔やんでいるわけにはいかない。

今ここで立ち止まれば、何も変えられない。

ノクスの足を引っ張ることになる。

ベルを救うという目的から、ますます遠ざかってしまう。



──それなら、自分の失敗は、自分で取り返すしかない。

ミィナはそう心の中で呟くと、ゆっくりと立ち上がる。


鞄の中を確認し、携帯用の食糧と、乾かした薬草から作った簡易薬を握りしめる。


物資は少ないが、森で迷うことなんて旅の中で何度も経験してきた。

大丈夫慌てなければ、きっと何とかなる。

そう自分に言い聞かせた。


視線を落とすと、足元の地面には小さな植物が点々と生えていた。

冬の寒さに晒され、枯れかけた葉先が縮れているが、その形と香りには見覚えがある。



──先日、この森に足を踏み入れるきっかけとなった薬草。



他の土地では見られない、ここにしか生えない固有の薬草だった。


ミィナ「……おんなじ森の中なんだ」



迷い込んだ場所は違って見えても、ここは確かにあのときと同じ森の中。

ミィナは植物の葉先をそっと撫で、目を伏せながら微かに息をついた。

場所が分かった。それだけでも、十分な前進だ。

握った拳に力を込め、ミィナは再び立ち上がる。

その瞳には、決意と焦り、そしてどこかに潜む微かな不安が宿っていた。


この森には魔物がいる。

ミィナはそう確信していた。


それは、研究所から放たれた“実験体”の類ではなく、おそらくこの森に自然に根を張って棲みついたものたち。

数日前、あの少女を助けた時に、すぐ近くで見た黒い影が記憶の底からじわりと浮かび上がる。



ミィナ「……魔物なんて、どこの森にだっている。エラヴィアの隠れ家の森にだって、たくさんいた」



声に出してみると、不思議とほんの少しだけ落ち着いた。

自分を励ますつもりで呟いた言葉だったが、自然と脳裏に浮かんできたのは──エラヴィアの名前だった。


優しく、けれど決して弱くない人。


自分とノクスを頼り、セラフを救おうとしてくれたときのこと。

再会の時に交わした、あたたかくて、懐かしくて、胸がぎゅっとなるような抱擁。

二人の間にあった壁が、ほんの少しだけ崩れたように感じたのを、ミィナは忘れていない。



ミィナ「……まだ話したいこと、たくさんあるのに」



ぽつりとこぼれたその声は、誰にも届かず森の静寂に溶けていく。

エラヴィアにも、ベルにも、ノクスにも──自分が生きてここを抜けて、もう一度会わなきゃいけない人がいる。


気持ちを引き締めるように、ミィナは小さく息を吐いた。



──ノクスの話では、この森のどこかに《蛇の法衣》の研究所があるという。



それは、魔力探知にも精通した彼がかつて属していた組織の“中枢”のひとつ。

そして今、自分はそのど真ん中にいる可能性が高い。



ミィナ「……罠が作動したってことは、中に何かしら報せが届いたかもしれない」



小声で呟くと、背筋に冷たいものが走った。

自分の魔力を読み取った結界。

転移型の結界術。



もし彼らがこちらに気づいているとしたら

──この静けさは、嵐の前触れ。



ミィナ「……動く? それとも、待つ……?」



答えの出ない問いが、喉を通り抜けて空気に紛れる。

このままじっとしていれば、ノクスがきっと来てくれるかもしれない。

でも、待つばかりでは危険だ。


さらに森の中に魔物がいる以上、この場が安全とは限らない。



ミィナ「……まずは、森の中を少しだけ探ってみよう。無理は、しない。……ね、ミィナ」



そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと足元の落ち葉を踏みしめる。

たった一人、霧と静寂に包まれた森の奥へ。



ミィナは慎重に森の中を進んでいた。

一歩ずつ、空気の揺らぎに注意を払いながら──けれど、そううまく避けられるものではない。



ミィナ「……っ、また……!」



結界の境界に触れた瞬間、視界が反転し、周囲の風景が弾けて飛ぶ。


ふたたび別の場所に弾かれたことを悟ったミィナは、息を呑み、膝に手をついて呼吸を整える。


──森への侵入者を拒む《蛇の法衣》の罠。


いくつもの転移結界が複雑に絡み合い、侵入者を撹乱する迷宮のような森。

それを容易く見極め、ミィナに警告しようとしたノクスの魔力探知能力の正確さを、改めて思い知らされる。



ミィナ「ノクス……すごいな……」



ぽつりと漏らした声が、かえって孤独を強くした。

それにしても──罠に触れるたび、身体の芯を削られるような感覚がある。

魔力を抜き取られるような、冷たい指先で撫でられるような感触。

まるで、動けば動くほど、自分の“存在”そのものがすり減っていくようだった。


──このまま歩き続ければ、戦う力どころか、立っていることすらできなくなる。

判断は早かった。


ミィナは近くの大木を背に、そっと腰を下ろす。

周囲を注意深く見回しながら、息を潜めるようにして座り込む。

そのときだった。


──気配が、走った。


風は吹いていない。

鳥も鳴かず、木々も沈黙しているはずなのに。

それなのに、背筋を撫でるような冷たい“視線”が、確かに存在していた。

見られている。どこかから、誰かが──



ミィナ「……誰……?」



小さな声で問いかける。

その声に応じるように、茂みの奥がかすかに揺れた。

音もなく、影が現れる。

静かに葉を払って現れたのは、細身の男だった。



焦げ茶の髪と瞳。親しみやすげな容貌だが、その無機質な目には感情の色が見えない。



──白衣。その上に、深い青の外套。



ミィナはすぐに思い出す。

この姿、この人を──かつてこの森で出会った《蛇の法衣》の男。ノクスの古い友。



ラゼル「ようやく、見つけた」



男はそう呟き、まるで予定通りだと言わんばかりにミィナの前に立った。



ミィナ「……? あなたは、確か……」

ミィナは目の前の男に戸惑い、反射的に後ずさった。

だが背後の大木がそれを遮る。逃げ道は、もうなかった。



ラゼル「また会ったね」



彼の瞳には、感情の色がほとんど見えない。

けれど、それは空虚さではなく──確かな“意志”が、静かに灯っていた。



ラゼル「君が森に入り、あの罠で飛ばされてからのことは、ずっと見ていた」



男──ラゼルは、剣も杖も持たぬまま、ひとつ息をつくように一歩近づいてくる。

敵意も殺気もない。ただ淡々とした動きだった。


周囲をひととおり見回したあと、彼はミィナの傍らに膝をついた。


その一連の動作は、まるで“予定された手順”のように整然としていた。



ラゼル「現在、この森は警戒が強化されている。立ち入った者はすべて、捕らえる決まりだ」

声は静かで低い。報告のような、どこか他人事めいた口調。

だがその言葉の端々に、何かが迫っている気配があった。



ラゼル「安心して。今は、敵ではない。君を傷つけるつもりはない」



そう言いながら、ラゼルはまっすぐミィナに視線を向けた。



ラゼル「だけど──一緒に来てもらう」



それは“保護”とも“拉致”とも取れる言葉だった。

ラゼルは、ゆっくりと手を伸ばす。

触れるか触れないかの距離で、その手は“選択”を与えるふりをしていた。



ラゼル「話は後にしよう。ここは危険だ。僕以外にも、君の存在に気づいた者たちが、すでに近くまで来ている。

……君が、他の誰かに奪われる前に。僕が連れていく」



──それは、救いの顔をした捕縛だった。



ミィナはその手を拒まなかった。


それが正しいのかさえ分からないまま──

ただ、今の自分にできる唯一の選択が、それだったから。

そして何より、ラゼルの声に宿る“飾りのない冷たさ”が、妙に嘘に聞こえなかったから。



優しさではない。拒絶でもない。

ただ、そこにあるのは──感情を排した事実。それだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ