5-43
ミィナが森の境界を越えた、その瞬間だった。
足元からふっと支えが消えたような感覚。
身体が空に放り出されたかのような浮遊感に、思わず息をのむ。
地面は崩れ落ち、風はぴたりと止み、代わりに耳鳴りのような重低音が頭蓋の奥を震わせてくる。
目を見開いたまま、無意識にノクスの方へ振り返ろうとした。けれど、それはもう遅かった。
視界の中で、ノクスの姿が不自然に引き伸ばされていく。
叫んでいる──口の形からそうわかった。でもその声は、まるで深く凍った湖の底から聞こえるように、異様に歪んでいた。
ミィナ「ノ……ク、ス……?」
その名を呼ぶよりも先に、視界が波打った。
ぐにゃりと、世界が歪む。
色彩が反転し、光と影がぐるりと一回転する。
現実の輪郭が溶け、音も匂いも手触りもすべてが、一瞬にして弾け飛んだ。
──そして次の瞬間、ミィナの足は、森の入り口とは異なる色の土を踏んでいた。
気がつけば、そこは深い森の中だった。
頭上を覆う枝葉は幾重にも重なり合い、わずかに白み始めた空をすっかり遮っている。
風も吹かず、鳥のさえずりもない。
虫の羽音すら聞こえない、静謐というよりは“息を潜めた沈黙”があたりを包んでいた。
──ここはどこ……?
空の色も、空気の匂いも先ほどとはどこか違って感じられる。
だが、何よりもはっきりしていたのは、「自分が罠に嵌められた」という確信だった。
ミィナは膝をつき、深く息を吐く。
浮遊するような感覚に囚われた直後、ノクスが何かを叫び、手を伸ばそうとしていたことは覚えている。
けれど、ほんの一歩早かった。彼の警告よりも先に、境界を越えてしまった。
ミィナ「……ごめん、ノクス」
誰にも届かない声で、小さくそう呟いた。
ベルを想うあまり、焦ってしまった。
助けたいという気持ちが先走り、冷静さを欠いた。
それが結果として、自分を孤立させてしまったのだ。
けれど、いつまでも悔やんでいるわけにはいかない。
今ここで立ち止まれば、何も変えられない。
ノクスの足を引っ張ることになる。
ベルを救うという目的から、ますます遠ざかってしまう。
──それなら、自分の失敗は、自分で取り返すしかない。
ミィナはそう心の中で呟くと、ゆっくりと立ち上がる。
鞄の中を確認し、携帯用の食糧と、乾かした薬草から作った簡易薬を握りしめる。
物資は少ないが、森で迷うことなんて旅の中で何度も経験してきた。
大丈夫慌てなければ、きっと何とかなる。
そう自分に言い聞かせた。
視線を落とすと、足元の地面には小さな植物が点々と生えていた。
冬の寒さに晒され、枯れかけた葉先が縮れているが、その形と香りには見覚えがある。
──先日、この森に足を踏み入れるきっかけとなった薬草。
他の土地では見られない、ここにしか生えない固有の薬草だった。
ミィナ「……おんなじ森の中なんだ」
迷い込んだ場所は違って見えても、ここは確かにあのときと同じ森の中。
ミィナは植物の葉先をそっと撫で、目を伏せながら微かに息をついた。
場所が分かった。それだけでも、十分な前進だ。
握った拳に力を込め、ミィナは再び立ち上がる。
その瞳には、決意と焦り、そしてどこかに潜む微かな不安が宿っていた。
この森には魔物がいる。
ミィナはそう確信していた。
それは、研究所から放たれた“実験体”の類ではなく、おそらくこの森に自然に根を張って棲みついたものたち。
数日前、あの少女を助けた時に、すぐ近くで見た黒い影が記憶の底からじわりと浮かび上がる。
ミィナ「……魔物なんて、どこの森にだっている。エラヴィアの隠れ家の森にだって、たくさんいた」
声に出してみると、不思議とほんの少しだけ落ち着いた。
自分を励ますつもりで呟いた言葉だったが、自然と脳裏に浮かんできたのは──エラヴィアの名前だった。
優しく、けれど決して弱くない人。
自分とノクスを頼り、セラフを救おうとしてくれたときのこと。
再会の時に交わした、あたたかくて、懐かしくて、胸がぎゅっとなるような抱擁。
二人の間にあった壁が、ほんの少しだけ崩れたように感じたのを、ミィナは忘れていない。
ミィナ「……まだ話したいこと、たくさんあるのに」
ぽつりとこぼれたその声は、誰にも届かず森の静寂に溶けていく。
エラヴィアにも、ベルにも、ノクスにも──自分が生きてここを抜けて、もう一度会わなきゃいけない人がいる。
気持ちを引き締めるように、ミィナは小さく息を吐いた。
──ノクスの話では、この森のどこかに《蛇の法衣》の研究所があるという。
それは、魔力探知にも精通した彼がかつて属していた組織の“中枢”のひとつ。
そして今、自分はそのど真ん中にいる可能性が高い。
ミィナ「……罠が作動したってことは、中に何かしら報せが届いたかもしれない」
小声で呟くと、背筋に冷たいものが走った。
自分の魔力を読み取った結界。
転移型の結界術。
もし彼らがこちらに気づいているとしたら
──この静けさは、嵐の前触れ。
ミィナ「……動く? それとも、待つ……?」
答えの出ない問いが、喉を通り抜けて空気に紛れる。
このままじっとしていれば、ノクスがきっと来てくれるかもしれない。
でも、待つばかりでは危険だ。
さらに森の中に魔物がいる以上、この場が安全とは限らない。
ミィナ「……まずは、森の中を少しだけ探ってみよう。無理は、しない。……ね、ミィナ」
そう自分に言い聞かせながら、ゆっくりと足元の落ち葉を踏みしめる。
たった一人、霧と静寂に包まれた森の奥へ。
ミィナは慎重に森の中を進んでいた。
一歩ずつ、空気の揺らぎに注意を払いながら──けれど、そううまく避けられるものではない。
ミィナ「……っ、また……!」
結界の境界に触れた瞬間、視界が反転し、周囲の風景が弾けて飛ぶ。
ふたたび別の場所に弾かれたことを悟ったミィナは、息を呑み、膝に手をついて呼吸を整える。
──森への侵入者を拒む《蛇の法衣》の罠。
いくつもの転移結界が複雑に絡み合い、侵入者を撹乱する迷宮のような森。
それを容易く見極め、ミィナに警告しようとしたノクスの魔力探知能力の正確さを、改めて思い知らされる。
ミィナ「ノクス……すごいな……」
ぽつりと漏らした声が、かえって孤独を強くした。
それにしても──罠に触れるたび、身体の芯を削られるような感覚がある。
魔力を抜き取られるような、冷たい指先で撫でられるような感触。
まるで、動けば動くほど、自分の“存在”そのものがすり減っていくようだった。
──このまま歩き続ければ、戦う力どころか、立っていることすらできなくなる。
判断は早かった。
ミィナは近くの大木を背に、そっと腰を下ろす。
周囲を注意深く見回しながら、息を潜めるようにして座り込む。
そのときだった。
──気配が、走った。
風は吹いていない。
鳥も鳴かず、木々も沈黙しているはずなのに。
それなのに、背筋を撫でるような冷たい“視線”が、確かに存在していた。
見られている。どこかから、誰かが──
ミィナ「……誰……?」
小さな声で問いかける。
その声に応じるように、茂みの奥がかすかに揺れた。
音もなく、影が現れる。
静かに葉を払って現れたのは、細身の男だった。
焦げ茶の髪と瞳。親しみやすげな容貌だが、その無機質な目には感情の色が見えない。
──白衣。その上に、深い青の外套。
ミィナはすぐに思い出す。
この姿、この人を──かつてこの森で出会った《蛇の法衣》の男。ノクスの古い友。
ラゼル「ようやく、見つけた」
男はそう呟き、まるで予定通りだと言わんばかりにミィナの前に立った。
ミィナ「……? あなたは、確か……」
ミィナは目の前の男に戸惑い、反射的に後ずさった。
だが背後の大木がそれを遮る。逃げ道は、もうなかった。
ラゼル「また会ったね」
彼の瞳には、感情の色がほとんど見えない。
けれど、それは空虚さではなく──確かな“意志”が、静かに灯っていた。
ラゼル「君が森に入り、あの罠で飛ばされてからのことは、ずっと見ていた」
男──ラゼルは、剣も杖も持たぬまま、ひとつ息をつくように一歩近づいてくる。
敵意も殺気もない。ただ淡々とした動きだった。
周囲をひととおり見回したあと、彼はミィナの傍らに膝をついた。
その一連の動作は、まるで“予定された手順”のように整然としていた。
ラゼル「現在、この森は警戒が強化されている。立ち入った者はすべて、捕らえる決まりだ」
声は静かで低い。報告のような、どこか他人事めいた口調。
だがその言葉の端々に、何かが迫っている気配があった。
ラゼル「安心して。今は、敵ではない。君を傷つけるつもりはない」
そう言いながら、ラゼルはまっすぐミィナに視線を向けた。
ラゼル「だけど──一緒に来てもらう」
それは“保護”とも“拉致”とも取れる言葉だった。
ラゼルは、ゆっくりと手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で、その手は“選択”を与えるふりをしていた。
ラゼル「話は後にしよう。ここは危険だ。僕以外にも、君の存在に気づいた者たちが、すでに近くまで来ている。
……君が、他の誰かに奪われる前に。僕が連れていく」
──それは、救いの顔をした捕縛だった。
ミィナはその手を拒まなかった。
それが正しいのかさえ分からないまま──
ただ、今の自分にできる唯一の選択が、それだったから。
そして何より、ラゼルの声に宿る“飾りのない冷たさ”が、妙に嘘に聞こえなかったから。
優しさではない。拒絶でもない。
ただ、そこにあるのは──感情を排した事実。それだけだった。