5-42
朝の光が霧を押し上げる中、道は徐々に森の影へと呑まれていく。
やがて森の手前、小さな村の外れに差しかかる。
そこで二人は馬を預けると、礼を言ってすぐに歩を早めた。
──足音だけが、深い緑の中に吸い込まれていった。
森の様相は、以前訪れたときとは明らかに違っていた。
かつては、浅い場所であれば旅人が迷い込むこともある──そんな“普通”を装った静かな森だった。
だが今、その気配は一変していた。
風が止まり、空気が肌にまとわりつく。
枝葉の擦れる音すら、何かを潜ませるようにひそやかで、異様な沈黙が森全体を包んでいる。
幾重にも折り重なる魔力の層。
それは明らかに人為的なもので、森そのものが何かを拒んでいるように思えた。
《蛇の法衣》の結界──否応なくノクスの記憶を呼び起こす感触だった。
おそらくは、あの“少女”との接触が原因か。
あるいは、ベルが本当にこの奥深くへ連れて行かれたためなのか。
どちらにせよ、森が侵入者に牙を剥き始めているのは確かだった。
ノクスはその気配にいち早く気づき、足を止めた。
ノクス「……待て、何かおかしい」
しかし、ミィナは早くベルのもとへ向かおうと、一歩を踏み出す。
ノクス「ミィナ、待っ──!」
ミィナ「……!」
叫ぶよりも早く、世界が揺れる。
まるで水面を覗き込んだように視界が歪み、色彩がずれる。
そして、次の瞬間──
ノクスの目に映ったのは、森の奥へと引き摺り込まれていくミィナの背だった。
ノクス「っ……ミィナ!」
伸ばした手は空を掴み、声は霧に吸い込まれる。
何かが発動した。
恐らく視覚と位置を撹乱する、空間干渉型の結界術。
侵入者を分断し、混乱を誘い、孤立させるための術。
ノクスの歯噛みする音だけが、静寂の中で響いた。
すぐに追おうと地を蹴ったが──
目の前の景色が、泡のようにたわんでいる。
見慣れたはずの木々が、まるで虚像のように揺らぎ、影だけが深く沈んでいた。
ノクス「……くそっ!」
焦燥が胸を突く。
だがこのまま突っ込めば、ミィナとの距離はかえって広がるだけ。
それどころか、自分まで罠に絡め取られかねない。
ノクスは踏みとどまった。
研ぎ澄まされた視線で、わずかな魔力の流れを探る。
──まだ、間に合う。
ミィナを見失ってはいけない。
彼は彼女の気配に、意識を集中させた。
この術式の構造を見極めなければならない。
かつて《蛇の法衣》にいた者として、
今こそ、自分が知る“闇”の知識を逆手に取るときだった。
ノクスは、荒ぶる心を鎮めるように何度も深呼吸を繰り返した。
感情を切り離し、冷静さを取り戻す。それが今、自分にできる最も確実な行動だった。
地面に足をしっかりと据え、森との境界線――魔力の揺らぎが強まっている“結界”の端に、そっと手をかざす。
ノクス(……やはり、これは)
指先に触れる空気が、微細に波打つ。
魔力の粒子が皮膚に絡みつくような、異質な感触。
ノクスは目を細めながら、結界の構造を探る。
ノクス(魔導具を介した転移型結界……この地に満ちる魔力を媒介として、侵入者の気配を感知し、その者の魔力に反応して“移動”を強制する)
侵入者を結界内のどこか、ランダムな地点へ飛ばす罠。
ただの警戒網ではない。《蛇の法衣》の本気を感じさせる防衛術式だった。
ノクスは、この手の魔術の理屈にも精通している。
魔力探知にも優れており、かつて組織で数多の魔導具を扱ってきた。
だからこそ分かる。この構造を解除するには、簡単にはいかない。
ノクス「……森を進みながら、魔導具を一つずつ破壊していくしかない」
ノクスは低く呟いた。
ノクス「けど、それじゃあ……どれだけ時間がかかるか分からない」
その時間の中で、ミィナがどうなるか──考えるだけで喉が詰まる。
その時だった。
「……何か困った様子だな、ノクス」
不意に響いた低い声とともに、冷たい気配が空気を引き締める。
ノクスははっとして振り返った。
そこには、青銀の髪を風に靡かせ、薄い霧の中から現れた一人の男が立っていた。
精悍な眼差しに、鋭い魔力の波をまとったその姿は、どこか人の理から外れた異質さを湛えている。
銀の竜人属の末裔。氷の魔力を纏う剣士。
ノクス「ナヴィ……!」
驚きと安堵が入り混じったような声が、ノクスの喉から漏れる。
ノクス「ミィナが……結界に捕まった。引き裂かれるように森の奥へ……!」
語るよりも先に、ノクスの顔に浮かんだ焦燥だけで、すべてを察したように、ナヴィは短く頷いた。
ナヴィ「ああ。走りながら、見えていた」
その声は静かだったが、芯のある響きを持っていた。
ナヴィ「だが……お前なら、もう何か手立てを考えているはずだ」
その言葉に、ノクスは一瞬、気圧されたように言葉を失う。
そして、わずかに目を伏せ、息を吐いた。
ノクス「……かなりの力技になる。けど、ナヴィ……お前がいれば可能だ」
答えるその瞳には、もう迷いはなかった。
ナヴィは口元に小さく笑みを浮かべ、頷いた。
ナヴィ「なら、やろう。ミィナを見失う前に」
それだけを言うと、二人は再び森の奥へと向き直る。
夜の帳のように深く広がる森の闇へと、互いに背中を預けながら、迷いなく踏み込んでいった。
氷と影とが交差する、その先へ。