5-41
蛇の法衣が研究所を隠す、あの森を目指して、ノクスとミィナは、夜の道をひたすらに駆けていた。
そこは、ほんの数日前に立ち寄ったばかりの場所。
ノクスが、かつて組織に属していた頃の友人と再会した、あの森。
けれど、あのときと今とでは、向かう理由も、二人の間に漂う空気も、まるで別物だった。
地図の上で最短距離を辿れば、日が沈んでから丸一日ほどで辿り着けるはずだ。
だがそれは、休まず走り続けることができる者の話。
実際には、夜明けを迎える頃には疲労が蓄積し、否応なく足が鈍っていた。
白み始めた空を背に、二人は小さな岩場に腰を下ろす。
ミィナが簡素な布を広げ、携帯食を取り出して湯を沸かす準備を進めている間、ノクスは一人、立ったまま周囲を見回していた。
ノクス「……ないな」
低くつぶやきながら、わずかに首を傾げる。
歩きながらも、ずっと気になっていたことだった。
もし《蛇の法衣》の者たちが、ベルを捕らえたまま、同じ森へ向かったのなら。
その足跡──魔力の乱れや、踏み荒らされた草、結界や封印の残滓──何かしらの痕跡が、道のどこかに残っていてもおかしくはない。
だが、この道には、それらしい気配すらない。
もちろん彼らは、闇の中で動くことに長けた集団だ。
ノクス自身もかつて、痕跡を一切残さずに移動する術を叩き込まれていた。
そして《蛇の法衣》には、ノクスの知らない道筋や、転移魔法すら用いる者もいる。
それでも──この無音の静けさは、どこか不気味だった。
ノクスの胸の奥に、拭いきれない不安が湧き上がっていた。
──本当に、ベルはこの先にあるあの研究所に運ばれたのか?
たしかに、あの森には《蛇の法衣》が長年隠し続けてきた秘密の施設が存在する。
かつてノクス自身もその組織に属していた頃、そこが貴重なサンプルや重要な実験体を集めた“中枢”のひとつであったことに疑いはなかった。
だが、組織を離れてすでに七年が経つ。
その間に、施設の構造も、運用の目的も変わっていて当然だった。
もっと新しく、もっと深く、彼の知らない別の研究所がどこかに作られていた可能性は、否定できない。
ノクス(もし、ベルがったく別の場所へ連れ去られていたとしたら──)
喉の奥に、ひやりとした感触が走った。
だが、それでも脳裏から離れなかったものがある。
──あの森で見た“ベルによく似た少女”。
記憶の底から浮かぶのは、無表情だったその顔が、一瞬だけこちらを見返したように思えたあの瞬間。
あれは確かに、ベルを模した存在だった。
《蛇の法衣》には、不死の魔女を再現しようとする者たちが、昔も今も根強く存在している。
その執念はもはや狂気に等しく、不死を失っているとはいえ、“本物”を手に入れたとあらば、必ずや“あの少女”と並べて研究対象にするはずだ。
ならば、ベルをその施設に連れて行ったと考えるのが、もっとも自然な推論だった。
ノクスの表情は、重苦しい沈黙の中でさらに険しさを増していた。
それを見るミィナの胸には、ちいさな痛みが残る。
ノクスが考え込むときの目はいつも鋭くて、何かを遠ざけているようで、触れてはいけない気がしてしまう。
でも、そんな彼のそばにいることを選んだのは、自分だ。
ミィナ「……ノクス、考えても仕方ないよ!」
気遣い半分、勢い半分で笑顔を浮かべてみせる。
明るく振る舞うことが、彼の足を止めないための一つの方法だと信じて。
明るい声。けれど、その響きは、どこか張りつめていた空気をそっと和らげてくれる。
ミィナ「ミィナたちにできることをするしかないよ」
その言葉に、ノクスはわずかに肩の力を抜き、苦笑めいて応じた。
ノクス「ああ……そうだな」
ミィナ「ノクスが今できるのは、ごはんを食べて、ちゃんと休むこと!」
そう言ってミィナ差し出した手は、指先がかすかに震えていた。
気づかれたくなくて力を込めたつもりだったけれど、うまくいかなかった。
不安がないわけじゃない。むしろ、胸の奥はずっとざわついている。
けれどそれを口にすれば、ノクスはきっともっと悩んでしまう。
だから笑って、ご飯を差し出す。
それが今の自分にできること。
ノクスは、そっとその手を取って握りしめた。
ノクス「……ごめん、ミィナ。そうだよな。ありがとう」
ミィナは静かにうなずき、包みを彼の手に託す。
二人は、簡素な食事を取り終えると、しばし地に身を横たえて休息を取った。
やがて夜明けの空が完全に朝へと変わる頃、再び歩き出す。
朝霧の立ち込める道の先に、ようやくひとつの町が姿を現した。
それは、旅の途中で一度立ち寄った、名もない小さな集落。
土の香りが濃く、石造りの家々が肩を寄せ合うように並ぶ、素朴で静かな場所だった。
見覚えのあるその風景は、変わらぬまま霧の中に佇んでいた。
ちょうど畑へ向かおうとしていた初老の農夫が、ふたりに気づく。
「おや……あんたたち、こないだ村に立ち寄った薬師さんたちじゃないか。急ぎの用かい? 馬なら貸してやるよ。ちょうど一頭、使ってないのがある」
思いがけない厚意に、ノクスとミィナは深く頭を下げた。
ノクス「助かります」
礼を述べながら手綱を受け取ると、農夫がぽつりと呟く。
「気をつけてな。……あの森の方じゃ、最近、魔物が出るって話だ」
その忠告を背に受けながら、ふたりは馬にまたがる。
そして、白く霞む霧の中を風のように駆け抜け、再び森を目指す道へと踏み出していった。
馬の蹄が乾いた土を蹴り上げ、早朝の霧の中を駆け抜ける。
冷たい風が頬を撫でる中、ノクスはふと、何かの“気配”に気づいて手綱を引いた。
ノクス「ミィナ、気になる物があった。少し止まろう」
ミィナも馬を下り、ノクスの視線の先を追う。
そこは道の脇に続く林の切れ目──だが、ただの自然の乱れではなかった。
地面が大きく抉れ、周囲の草は黒く焼け焦げている。
枝は不自然な角度で折れ、空気がざらついていた。
風の流れが、どこか鈍く歪んでいる。
ノクスはゆっくりとその中心に歩み寄り、片膝をついて、手をかざす。
そこに残されていた微かな魔力の残滓──それを指先でなぞるように確かめた。
ノクス「……間違いない。《蛇の法衣》のものだ」
低く、噛みしめるような声で、ノクスは呟く。
その魔力には、見覚えがあった。
かつて自らが扱っていたものと同じ“色”を帯びている。
術の系統、詠唱のリズム、そして魔力の流れの癖。
それは、確かにあの組織が好んで用いる呪術の痕跡だった。
ノクスは目を細め、焦げ跡の向こうに視線を巡らせる。
ただの魔物の仕業ではない。何かが、ここで確かに争った。
それも、激しく、そして短時間で終わったように見えた。
ミィナ「ベルを連れた人たちが、魔物と戦ったのかも」
ミィナの言葉に、ノクスは静かに頷いた。
その推測は、すぐに胸の奥で重い確信へと変わっていく。
漠然としていた不安が、形を持ち始める。
──やはり、彼らはあの森を目指している。
それは確信だった。
ベルがあの“再現体”と並べられる未来が、すぐそこに迫っている。
それから、二人は無言で馬を駆った。