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セラフが意識を取り戻したのは、ノクスたちが立ってからすぐのことだった。
傷は深く、毒の影響も残っていたが、彼は途切れ途切れに、ここであったことを語り始めた。
《蛇の法衣》の者たちが、ベルを捉えようと追ってきたこと。
彼女が、自らの命を盾に自分を助けようとしたこと。
そして──彼女が、連れ去られていった最後の瞬間のこと。
その言葉のひとつひとつが、熱のこもった囁きのように、崩れた空気の中で震えていた。
それは、自責と痛みに彩られた回想であり、言葉にしてようやく自分を繋ぎ止めているような、壊れかけた者の語りだった。
ナヴィは黙って、それを聞いていた。
冷たく、鋭く、感情の起伏を抑えるかのような表情で。
隣に座るエラヴィアもまた、一言も発さずに、じっとセラフの口元だけを見つめていた。
語りの合間、セラフの一人称がわずかに揺れたのを、ナヴィは聞き逃さなかった。
セラフ「……僕は……いや、私は──」
掠れた声は、無意識に変化していた。
それは、痛みに混じったうわ言ではなく、むしろ本当の“地”が漏れたような音だった。
ナヴィ(おそらく、ベルの前では“僕”と名乗っていたのだろう)
淡々とそう思考する一方で、ナヴィの胸には、とある考えが浮かぶ。
“僕”と“私”。
ナヴィがこれまでに見たセラフは、高尚な神官のように振る舞い、近づきがたい強者としての姿だった。
それがベルの前では──主従の仮面を被りながら、少年のように在ろうとしたのかもしれない。
愛する者の前では、強者でも従者でもなく、ただ一人の人間で在りたかったのだと。
そのありように、ナヴィは戸惑いながらも、奇妙なほどの共感を覚えていた。
そこに、自分と同じ想いを見てしまった気がしたのだ。
誰かを、ただ守りたいという想い。
見返りも、赦しも、癒しも求めずに。
そして、ナヴィは自然と視線を隣に向けた。
エラヴィア。
彼女は、神を自身の身体に顕現させ、己の命を削ってまでベルを助けようとした。
あのとき、命を手放す覚悟すら秘めていたはずだ。
そして今も、決して万全とは言えぬ身体で──固定陣すら使わず、空間に干渉する強引な転移魔法を行使した。
ナヴィも共に連れてきたことでその負担はさらに大きかった。
ナヴィ(どうして、そこまで……)
その問いは、内側で何度も反響し、冷たい棘のように刺さり続けた。
ベルがエラヴィアの行動をどう受け取っているのか。
ナヴィには分からない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
エラヴィアは、ベルに“嫌われても救いたかった”。
その想いだけは、痛いほどに感じ取れてしまった。
たとえ拒絶されようとも。
たとえ、自身を危険にさらすことになろうとも。
それでもなお、手を伸ばすと決めた相手。
ナヴィの胸の奥が、きしむように痛んだ。
それは、形のない感情──
嫉妬とも羨望とも、愛とも呼べない、ただの“痛み”。
彼女にそこまでさせる存在が、この世界にいる。
そしてその者の名は、自分ではない。
ナヴィは、ある気配に気がつく。
それは自分がノクスたちと共にすぐ出発せず、この場に残った理由。
ここに来てすぐに意識の隅で感じ続けていた、“悪意”の残り香。
セラフの命を確実に絶つために残った《蛇の法衣》の者たち。
彼らの足音はゆっくりと、油断した獣のように、じわじわと近づいてきていた。
ナヴィ(……ベルの願いを、踏みにじるつもりか)
彼女が、身を捧げてまで守ろうとした命。
その命を、ただの“仕事”として狩ろうとする者たち。
下級の術師。
相手は、瀕死の人間を仕留めるだけの任務だと思っている。
こちらに気づかず、警戒もなく、油断しきった足取り。
ナヴィ(たとえエラヴィア様にとって敵ではないとしても……)
ナヴィは唇を噛んだ。
エラヴィアにその手を汚させたくない、という気持ちに理由はいらなかった。
それは、彼の根源に宿る意志でもあった。
ナヴィは目を伏せ、深く、静かに息を吸い込む。
胸の奥で、冷気が形を取り始める。
全身に氷の魔力が流れ込み、皮膚の下で白い光を帯びる。
ナヴィは無言で立ち上がった。
ベルのためでも、セラフのためでもない。
今は、ただこの手で守ると決めたからだ。
足元に、氷の紋が広がる。
風が冷たく揺れ、空気が研ぎ澄まされる。
静かに告げたその言葉は、冷気とともに夜を裂き──
牙を隠していた銀の竜が、静かに狩りへと動き出した。
ナヴィの身体に、氷の魔力が満ちる。
足元に描かれる紋の中心で、彼は静かに息を吐いた。
──来る。
悪意を引き連れて、術者たちが姿を現す。
朽ちた建物の隙間を縫うように、黒い外套が揺れた。
「誰だ……ッ!?」
「敵か──!」
ナヴィの存在にようやく気がついた彼らの言葉とともに、魔法の結界が展開される。
だが──
ナヴィ「遅い」
氷が疾る。
ナヴィの足元から解き放たれた冷気が、蒼白の刃となって宙を裂く。
風が凍り、空気が悲鳴を上げる。
黒衣の術者が、何かを叫ぶよりも早く、足元から凍結が這い上がり、動きを奪っていく。
氷柱が咲くように、彼らを貫いた。
──そのすべては一瞬だった。
動かなくなった影を見下ろし、ナヴィは小さく息を吐いた。
敵の気配は、もうない。
それでもナヴィは、その場にしばらく立ち尽くしていた。
魔力を収めながら、足音に耳を澄ます。
──気配。
風を裂いて、複数の気配が近づいてきた。
それは敵ではない。魔法ギルドの救護班だ。
数秒後、馴染みのある術者たちが森の中から現れ、戦場の残骸を見て息を呑む。
彼らの視線は凍りついた死体から、すぐに地に伏したセラフへと向かった。
「ナヴィ様……あれが、セラフ殿ですね!」
ナヴィはその術師に頷く。
「回復班、急げ!」
命をつなぐ魔法の光が、彼の身体を包み始める。
それを確認しながら、ナヴィは一度だけ足を止めた。
崩れかけた石壁の向こうに、エラヴィアの姿がある。
その傍らで、セラフが静かに横たわっている。
彼の語った回想が、まだ耳の奥に残っていた。
──“僕”と“私”。
ナヴィは唇を噛む。
声をかけようと思えば、かけられた。
だが、あえてそうしなかった。
自分の中にある、この感情に気づいてしまったから。
エラヴィアへの敬慕と、ベルへの嫉妬に似た想い。
それらが自分の中で交じり合い、輪郭を持たぬ痛みとなっていた。
それを言葉にした瞬間、崩れてしまう気がした。
その痛みは、誰にも渡すことのできない、ただの独りよがりだった。
ナヴィ(……今は、まだ)
ナヴィは、そっと背を向けた。
声も、表情も、なにも残さずに。
ただ静かに──銀の竜は夜の中を駆け出した。
星も月も隠された黒の世界を、切り裂くように。
氷の残滓だけが、彼の足跡を照らしていた。