表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
303/316

5-40



セラフが意識を取り戻したのは、ノクスたちが立ってからすぐのことだった。

傷は深く、毒の影響も残っていたが、彼は途切れ途切れに、ここであったことを語り始めた。


《蛇の法衣》の者たちが、ベルを捉えようと追ってきたこと。

彼女が、自らの命を盾に自分を助けようとしたこと。

そして──彼女が、連れ去られていった最後の瞬間のこと。


その言葉のひとつひとつが、熱のこもった囁きのように、崩れた空気の中で震えていた。

それは、自責と痛みに彩られた回想であり、言葉にしてようやく自分を繋ぎ止めているような、壊れかけた者の語りだった。


ナヴィは黙って、それを聞いていた。

冷たく、鋭く、感情の起伏を抑えるかのような表情で。

隣に座るエラヴィアもまた、一言も発さずに、じっとセラフの口元だけを見つめていた。

語りの合間、セラフの一人称がわずかに揺れたのを、ナヴィは聞き逃さなかった。



セラフ「……僕は……いや、私は──」



掠れた声は、無意識に変化していた。

それは、痛みに混じったうわ言ではなく、むしろ本当の“地”が漏れたような音だった。



ナヴィ(おそらく、ベルの前では“僕”と名乗っていたのだろう)



淡々とそう思考する一方で、ナヴィの胸には、とある考えが浮かぶ。


“僕”と“私”。

ナヴィがこれまでに見たセラフは、高尚な神官のように振る舞い、近づきがたい強者としての姿だった。

それがベルの前では──主従の仮面を被りながら、少年のように在ろうとしたのかもしれない。

愛する者の前では、強者でも従者でもなく、ただ一人の人間で在りたかったのだと。


そのありように、ナヴィは戸惑いながらも、奇妙なほどの共感を覚えていた。


そこに、自分と同じ想いを見てしまった気がしたのだ。

誰かを、ただ守りたいという想い。

見返りも、赦しも、癒しも求めずに。


そして、ナヴィは自然と視線を隣に向けた。



エラヴィア。



彼女は、神を自身の身体に顕現させ、己の命を削ってまでベルを助けようとした。

あのとき、命を手放す覚悟すら秘めていたはずだ。


そして今も、決して万全とは言えぬ身体で──固定陣すら使わず、空間に干渉する強引な転移魔法を行使した。

ナヴィも共に連れてきたことでその負担はさらに大きかった。



ナヴィ(どうして、そこまで……)



その問いは、内側で何度も反響し、冷たい棘のように刺さり続けた。

ベルがエラヴィアの行動をどう受け取っているのか。

ナヴィには分からない。

だが、ひとつだけ確かなことがあった。

エラヴィアは、ベルに“嫌われても救いたかった”。

その想いだけは、痛いほどに感じ取れてしまった。


たとえ拒絶されようとも。

たとえ、自身を危険にさらすことになろうとも。

それでもなお、手を伸ばすと決めた相手。


ナヴィの胸の奥が、きしむように痛んだ。

それは、形のない感情──

嫉妬とも羨望とも、愛とも呼べない、ただの“痛み”。

彼女にそこまでさせる存在が、この世界にいる。

そしてその者の名は、自分ではない。



ナヴィは、ある気配に気がつく。

それは自分がノクスたちと共にすぐ出発せず、この場に残った理由。


ここに来てすぐに意識の隅で感じ続けていた、“悪意”の残り香。

セラフの命を確実に絶つために残った《蛇の法衣》の者たち。

彼らの足音はゆっくりと、油断した獣のように、じわじわと近づいてきていた。



ナヴィ(……ベルの願いを、踏みにじるつもりか)



彼女が、身を捧げてまで守ろうとした命。

その命を、ただの“仕事”として狩ろうとする者たち。

下級の術師。

相手は、瀕死の人間を仕留めるだけの任務だと思っている。

こちらに気づかず、警戒もなく、油断しきった足取り。



ナヴィ(たとえエラヴィア様にとって敵ではないとしても……)



ナヴィは唇を噛んだ。

エラヴィアにその手を汚させたくない、という気持ちに理由はいらなかった。


それは、彼の根源に宿る意志でもあった。

ナヴィは目を伏せ、深く、静かに息を吸い込む。


胸の奥で、冷気が形を取り始める。

全身に氷の魔力が流れ込み、皮膚の下で白い光を帯びる。


ナヴィは無言で立ち上がった。

ベルのためでも、セラフのためでもない。

今は、ただこの手で守ると決めたからだ。

足元に、氷の紋が広がる。

風が冷たく揺れ、空気が研ぎ澄まされる。

静かに告げたその言葉は、冷気とともに夜を裂き──

牙を隠していた銀の竜が、静かに狩りへと動き出した。


ナヴィの身体に、氷の魔力が満ちる。


足元に描かれる紋の中心で、彼は静かに息を吐いた。


──来る。


悪意を引き連れて、術者たちが姿を現す。

朽ちた建物の隙間を縫うように、黒い外套が揺れた。



「誰だ……ッ!?」


「敵か──!」



ナヴィの存在にようやく気がついた彼らの言葉とともに、魔法の結界が展開される。


だが──



ナヴィ「遅い」



氷が疾る。

ナヴィの足元から解き放たれた冷気が、蒼白の刃となって宙を裂く。

風が凍り、空気が悲鳴を上げる。

黒衣の術者が、何かを叫ぶよりも早く、足元から凍結が這い上がり、動きを奪っていく。

氷柱が咲くように、彼らを貫いた。



──そのすべては一瞬だった。



動かなくなった影を見下ろし、ナヴィは小さく息を吐いた。

敵の気配は、もうない。

それでもナヴィは、その場にしばらく立ち尽くしていた。

魔力を収めながら、足音に耳を澄ます。



──気配。



風を裂いて、複数の気配が近づいてきた。



それは敵ではない。魔法ギルドの救護班だ。

数秒後、馴染みのある術者たちが森の中から現れ、戦場の残骸を見て息を呑む。



彼らの視線は凍りついた死体から、すぐに地に伏したセラフへと向かった。



「ナヴィ様……あれが、セラフ殿ですね!」



ナヴィはその術師に頷く。



「回復班、急げ!」



命をつなぐ魔法の光が、彼の身体を包み始める。

それを確認しながら、ナヴィは一度だけ足を止めた。

崩れかけた石壁の向こうに、エラヴィアの姿がある。

その傍らで、セラフが静かに横たわっている。

彼の語った回想が、まだ耳の奥に残っていた。



──“僕”と“私”。



ナヴィは唇を噛む。

声をかけようと思えば、かけられた。

だが、あえてそうしなかった。

自分の中にある、この感情に気づいてしまったから。


エラヴィアへの敬慕と、ベルへの嫉妬に似た想い。

それらが自分の中で交じり合い、輪郭を持たぬ痛みとなっていた。

それを言葉にした瞬間、崩れてしまう気がした。


その痛みは、誰にも渡すことのできない、ただの独りよがりだった。



ナヴィ(……今は、まだ)



ナヴィは、そっと背を向けた。

声も、表情も、なにも残さずに。



ただ静かに──銀の竜は夜の中を駆け出した。

星も月も隠された黒の世界を、切り裂くように。

氷の残滓だけが、彼の足跡を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ