5-39
崩れた石壁の影に、ベルは身を潜めていた。
廃墟となった村の一角。
すでに人の声も温もりも消えたその場所で、彼女はただ、風に揺れる残骸の隙間から──一人の男の背を、見つめていた。
視線の先にはセラフがいた。
剣を手に、彼らの前に立ち塞がっている。
幾重にも張り巡らされた結界、宙を裂くように放たれる攻撃魔法。
そのすべてを、剣と肉体で受け止めながら、彼は動いていた。
ベル(……なぜ、そこまで)
その問いは声にならず、胸の奥で静かに溶けていく。
わかっている。答えなど、とっくに知っている。
彼は今──ベルのために戦っている。
命を賭けて。
傷つきながら、それでも後退することなく。
彼は“守る”ためだけに剣を振るっていた。
あの日の彼とは、まるで別人だった。
かつてセラフが、自分のもとへ現れた時のことを思い出す。
狂気に染まった眼差し。
彼女を手に入れるため、詩を歌うように結界を張り、ベルを追い詰めたあの夜の戦い。
あの頃の彼に、恐怖以外の感情など持てなかった。
自身の気配を、死神の魔力で塗り潰し、呼吸をひそめてセラフから身を隠していた。
だが今──
目の前のセラフは、狂気を手放し、ただ「ベルを守りたい」と願う人間としてそこに立っていた。
ベルは思う。
自身を守るために一人で戦っていた頃よりも、
自分を守ろうとするその背中を、ただ見つめるしかできない今のほうが、ずっと苦しい。
剣を振るうたび、セラフの動きはわずかに鈍る。
服の隙間からのぞく肌は、毒に蝕まれたように不自然な色を帯びている。
それでも彼は、倒れない。
視界が揺らいでも、足元が崩れても、敵の嘲りに晒されても。
それでも、立ち上がる。
ベルの唇が、強く噛み締められる。
彼女はわかっていた。
セラフの限界が、近いことを。
それでも彼が動き続ける理由が、自分にあることを。
そして、自分が何もできないことも。
風が吹いた。
焦げた木の匂いと、血の気配と、どこかで死んだ獣の腐臭と。
そのすべてに混ざって、かすかに甘く鋭い毒の香りが鼻をついた。
ベル(もう……やめて)
誰に届くとも知れない心の声が、胸の奥で零れる。
ベルは拳を握った。
自分は、隠れているだけでいいのか。
セラフが、かつてベルを手に入れるために全てを傷つけたはずの彼が。
今は、自分を守るために死の縁を踏み越えようとしている。
それなのに、自分は。
「無理に殺す必要はないが……こうなったなら、片付けておくか」
低く、冷ややかな声が戦場に響いた。
「包囲の円の半数は、捕獲対象の捜索を」
《蛇の法衣》の指揮を執る男の言葉に応じるように、術者たちが動きを変える。
それまでセラフのみに向けられていた視線が、じわじわと廃墟の村へと広がっていった。
──気づかれたわけではない。
けれど、確実に“捜索”が始まった。
無数の足音が、朽ちた建物の縁を踏み鳴らす。
崩れた壁の陰を探り、焼け焦げた柱の裏を回り込む影。
かすれた詠唱が空間に染みこみ、見えない手が周囲を撫で回すように這い寄ってくる。
「慟哭ノ従者、意外ともったな」
「だが、さすがにこの人数と“対策”には敵わなかったようだ」
「不死の少女も、姿を見せないな……。力を失っているというのは本当だったか」
「本部の通達通りなら、祝福は消えているはずだ。あとは回収して調べるだけさ」
「……死神の力を喪失したのなら、解剖に回されるのかもな」
ひそやかに交わされる会話が、ベルの耳を刺す。
ただの言葉ではない。
自分が何をされようとしているのか。
その“未来の音”のように響いてくる。
ベルは、手のひらで唇を押さえた。
息が詰まり、喉の奥が焼けるように痛む。
叫びたかった。泣き叫んで、すべてから逃げ出したかった。
それでも。
彼女の姿は、まだ誰の目にも映っていない。
目の前を通り過ぎた術者たちも、まるで彼女など存在していないかのように通り過ぎる。
──結界は、まだ生きている。
セラフが張った、認識阻害の術。
気休めにすぎないはずのその術が、今も確かに自分を守っている。
ベル(……まだ、私を──)
毒に蝕まれ、傷つき、今にも崩れ落ちそうな身体で。
それでも彼は、ここで──今この瞬間も、ベルを守っている。
ベルは自身の胸がきしむ音が聞こえた気がした。
視界が揺らぐ。こらえていた涙が、つと頬を伝う。
ベル(もう……これ以上……)
セラフは、永い時を生きたベルにとって、もっとも彼女を苦しめた存在の一人だった。
あの狂気は、死神の祝福によって歪められた執着の果て。
だが今──その祝福を失ってなお、彼は自分を守り続けている。
ベル(だったら……私は)
守られているだけではいけない。
背負わなければならない。
そう、思った瞬間だった。
ベルの指が、震えながらも確かに短剣の柄を握っていた。
そのまま、迷いなく──
刃の切っ先を、自らの喉元へとあてがう。
乾いた音が、廃墟の中に響く。
ベルの足が、石を踏みしめた音だった。
その一歩で、いくつもの気配が揺れる。
一斉に振り返る視線が、暗がりの中で確かに彼女を捉えた。
──夕暮れが、夜に溶ける。
妙に赤く染まった空に馴染まぬ、淡いラベンダーの髪が、風に揺れた。
その風には、古い友人の探るような気配が混じっていたが──
今のベルには、死神の魔力も、異質な気配も、何ひとつ残されていない。
風はただ、彼女の頬を優しく撫でて、通り過ぎた。
黒衣たちの視線が集まる。
短剣の刃が首に押し当てられていることに気づいた瞬間、彼らの動きが止まった。
ベルの瞳は揺れていない。
痛みにも恐怖にも屈しない──
確かな、覚悟だけがそこにあった。
ベル「……彼を、殺さないで」
静かに、それだけを告げた。
その声は、凛としていた。
廃墟に、沈黙が落ちる。
セラフが、遠くからその姿に気づいた。
喉の奥で、絞り出すように──その名を呼ぶ。
セラフ「……だめだ、ベル……!」
呻くような声。
だが彼女は、答えない。
ただ静かに、短剣を喉に当てたまま、セラフのもとへと歩き出す。
彼女の背を撫でる風は、もう何も言わない。
《蛇の法衣》とセラフの前に現れたベルは、短く、静かに告げた。
ベル「私は、ここにいる。……彼を殺すのならば、私も死ぬわ」
その言葉と同時に、ベルは手にした短剣の刃を、そっと自らの喉元へと押し当てた。
切っ先が皮膚をかすめ──細く赤い線が浮かぶ。
滲んだ血は、不死の祝福を失った彼女の身に、癒えることなく残った。
彼女は、己の命を盾にしていた。
死をもって、セラフの命乞いをしていた。
「……不死の魔女。祝福を喪失したというのは、本当のようだな」
《蛇の法衣》の司令官を務める男は、冷笑を浮かべながらも、その姿を静かに観察していた。
やがて、冷ややかな声で、淡々と判断を下す。
「──まあ、このまま放っておいても、あの男は死ぬだろう。
守るはずのものに、守られたな。……“慟哭ノ従者”だった男よ」
男はベルの手を掴み、短剣を奪い取る。
ひやりとした金属の重さを掌に感じながら、それを無造作にセラフの足元へと投げつけた。
刃が地面を跳ねて止まる音が、乾いた空気に沈んで響く。
その表情には、皮肉と嘲りを混ぜた笑みが浮かんでいた。
セラフは、まだ剣を手放していなかった。
崩れ落ちそうな身体を必死に支えながら、それでも彼は、ただベルを見ていた。
ベルは、静かに唇だけを動かし、言葉を紡ぐ。
ベル「……ありがとう」
声にはならなかった。けれど、その想いは確かに届いていた。
セラフ「……だめだ、ベル……」
掠れた声で、セラフが喉の奥から絞り出すように呟いた。
だが、男はその言葉に耳を貸さなかった。
無造作にセラフの剣を蹴り飛ばし、刃が地に転がった。
男はそれを、まるでくだらない玩具でも踏み潰すように足で押さえ──鈍く、砕ける音を響かせた。
金属が折れる音に、ベルの胸がきしむ。
それは、何度も自分のために振るわれた剣であり、誰かの信仰や希望が宿っていたものだった。
見えない何かが、静かに崩れ落ちていくようだった。
男の指示で、周囲の術者の一人が魔導具を運んでくる。
ベル「……こんなものを使わなくても、私には逃げる力なんてないわ」
ベルはそう言いながら、まっすぐに男を見つめていた。
「──念のため、だ」
次の瞬間。
ベルの周囲に、魔導具を媒介とした拘束の魔法陣が展開される。
不可視の鎖がその身を絡め取り、力なく膝を折りそうになる身体をきつく縛った。
立ち尽くすベルの目に映ったのは──
絶望を宿した瞳で自分を見るセラフの姿だった。
ベル(……どうか、生きて)
けれど、彼女の祈りは声にならなかった。
そして──
ベルは、ただ静かに、《蛇の法衣》の者たちに連れ去られていった。
その背中を、ただ見送ることしかできなかったセラフの視界は地に倒れ、やがて闇に沈んでいった。
その瞬間。
──風が、動いた。
それは人には感じ取れぬほどの、わずかな震えだった。
けれどそこには、確かに「意志」があった。
枯れた木々のあいだから、ふわりと浮かぶ薄緑の光。
音もなく漂うその光は、廃墟の上空を旋回し、傷つき崩れ落ちたセラフの傍に降りる。
彼の呼吸がまだあることを、確かめるように。
──風の精霊だった。
風に宿る意思は、微かな囁きとともに周囲の魔力の残滓を読み取り、空の気配をたどって上昇する。
そして風は、ひとつの場所を目指して飛び去った。
空に溶けゆく夕の名残を纏いながら──
塔がそびえ、主が待つ、あの街へ。