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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
ベルは手元の湯のみを静かに卓へ戻すと、腰に差していた護身用の短剣を抜いた。
迷いなど微塵もない動作で、自らのラベンダー色の髪を一房、音もなく切り落とす。
光を受けてきらめいた淡い紫の糸が宙を舞い、やがて彼女の掌に落ちた。
それをそっと布に包み込むと、ベルは小さな包みをカイルの膝元へ差し出した。
ベル「……助けてくれたお礼よ。それと、“逃がした”ことに対する、あなたの保険」
その声は淡々としていたが、確かな優しさと現実を見据えた覚悟が宿っていた。
ベル「それを渡せば、きっと許されると思うわ」
カイルは震える手で、それを受け取った。
包まれた髪の重さはわずかでも、それが持つ意味はあまりに大きかった。
長年姿を見せていなかった“不死の魔女”
彼女が現れた証拠が今、自分の手の中に確かに存在している。
これは、《蛇の法衣》の研究者たちにとって、何よりも危うい贈り物だった。
彼らの渇望の対象であり、研究の材料ともなる。
その重みに、カイルは黙したまま、視線を落とした。
ベル「《蛇の法衣》とは、昔から争ってきたわ。
捕らえられては、実験道具にされて、逃げ出して……また追われる。
何度も、何度も、繰り返してきた」
淡い声色のまま、ベルの瞳に一瞬だけ――
深い憎しみと、痛みの影が射した。
ベル「“死神の揺り籠”を、本当に知っている者は少ない。私ですら詳しいことは分からないの。
でも……蛇の法衣は、昔からそれを知っていた。
私の魔力を使い尽くし、揺り籠を無理に発動させて……観察する。
私が眠っている間に、彼らはそれを、私自身より深く理解していった」
その記憶が疼いたのか、ベルのまなざしに再び暗い色が宿る。
だが、すぐに小さく微笑んで、それを静かに覆い隠した。
ベル「でも、その頃に関わっていた者たちは、もう誰も生きていない……」
彼女は立ち上がり、静かに言葉を結ぶ。
ベル「助けてくれて、ありがとう。カイル」
立ち上がるその背には、遠くて触れることのできない孤独が滲んでいた。
彼女の動きは、波紋ひとつ立てぬ水面のように静かだった。
揺れる髪の先から、薬草の香が微かに流れ落ちる。
その背には、深く長い時を孤独に生きてきた者だけが持つ、言葉にできない重みがあった。
その光景を見た瞬間、カイルの胸の奥で何かが弾けた。
焦がれるような熱が、激しく突き上げる。
理解では届かない。
理性では掴めない。
それでも――
その存在を、手に入れたい。
閉じ込めたい。
守りたい。
壊してしまいたい――
全てがないまぜになった、狂おしいほどの感情。
気づけば、カイルはベルを抱きしめていた。
腕の中の彼女は、一瞬だけ身を強張らせた。
だがそれもやがて、静かにほどけていく。
まるで湖に落ちた石の波紋が、やがて穏やかに消えるように。
ベルはそっと手を伸ばし、カイルの頭を撫でた。
それは拒絶ではなかった。
けれど――執着を許すものでもなかった。
しばらくして、ベルは何も言わず、その腕の中から抜け出す。
静かに、小屋の扉を開け、夜の静寂へと歩き出す。
一度も振り返ることなく、まるで最初からそこに属していなかったかのように。
カイルはその場に立ち尽くしたまま、動けなかった。
焼けつくような想いだけが、全身を支配していた。
扉が閉まる。
その瞬間、世界が音を失ったかのようだった。
ただ、薬湯の湯気だけが名残のように揺れ、そこにあった温もりを静かになぞっていた。
カイルは膝をついた。
心臓の鼓動が、耳の奥でひどくうるさく響いている。
何かを掴みかけて――
指の隙間から零れ落ちた、その感触。
その残滓だけが、胸の奥で灼けつくように疼いていた。
もう一度、抱きしめてしまえば、
二度と離せなくなる。
もう一歩、踏み出してしまえば、
きっと、取り返しがつかなくなる。
それほどに、彼女は。
小屋の中には、薬草の香と、カイルの荒い息遣いだけが残っていた。
深く、深く、静かな夜の底のような沈黙が、そこを満たしていた。
第一章終わりです。