1-27
※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
湯気の立つ陶器の器を手に、カイルは扉の前で小さく息を吐いた。
扉の向こうに、まだ彼女がいてくれるか――その問いに答えを得るのが怖かった。
だが、静かに扉を開けた瞬間、目に映ったのはそこに佇む彼女の姿だった。
ベルは、身じたくを整えていた。
カイルが用意した藍色の服に着替え、卓の前に静かに座っている。
ベル「服、ありがたく使わせてもらうわ」
その声には、まだ距離があった。
けれど、完全な拒絶ではない。
カイルは黙って頷き、湯気を立てる器を卓に置く。
カイル「薬草を煮出しただけだ。疲れた身体にはよく効く」
ベルは器に手を伸ばす。冷えた指がぬくもりに触れたとき、カイルはようやくほんの少しだけ、胸の緊張がほぐれるのを感じた。
ベル「……毒も呪いも、入っていないのね」
視線が、探るように向けられる。
疑念よりも――“試す”ような色を帯びた眼差しだった。
ベル「それは、私に効果がないと知っているから? それに……」
一拍、息を置く。
ベル「寝ている間に、仲間を呼んでおくこともできたはずなのに、呼ばなかったのね」
――問いと、刃と、戸惑い。
すべてが淡く織り交ぜられた言葉に、カイルはわずかに表情を曇らせた。
カイル「……それは……」
言いかけた言葉は、喉の奥で消える。
迷いが揺らいだその沈黙を、ベルの微笑みがやわらかく打ち消した。
ベル「そんなに真剣な顔、しなくていいのに。少しからかっただけよ」
その笑顔に、カイルの胸が静かに緩む。
ようやく彼の口元に、人間らしい微笑みが戻ってきた。
カイル「……ああ」
そして彼は、ぽつりと語り始めた。
カイル「俺は元々、魔法ギルドの人間だった。魔術の基礎は、エラヴィア様から学んだ。……先生は、俺にとって、恩師なんだ」
ベルは何も言わず、耳を傾けていた。
カイル「黒き観測者が街の風を濁らせていた夜……君は、先生を助けたんだろう?」
静かだが、濃い感情の滲んだ言葉だった。
カイル「君が先生の部屋へ結界を張っていたのはわかってる。あの規模の魔術、相当の消耗だったはずだ。そのあと、観測者に追われて――」
言葉を濁すカイルの声に、ベルが小さく首を傾げる。
ベル「……だから助けてくれたの? 私があなたの恩師を救ったから」
カイルはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
カイル「それも、あると思う。だけど、それだけじゃない」
目を伏せたまま、彼は自分の手を見つめる。
言葉を選ぶように、少しずつ、少しずつ。
カイル「……あの夜、君が襲われていたとき。俺は遠くから、ただ見ていた。……けれど、限界だった。観測者たちが理性をなくし、君が壊されそうになって――」
拳が、わずかに震える。
カイル「その時、俺は……《蛇の法衣》の古い記録を思い出した。
“死神の揺り籠”――魔力を使い果たした不死の魔女を守る、不可侵の殻のことを」
ベルの表情がわずかに動く。
カイル「君を救えるかもしれない、と……俺は、持っていた魔力を奪う魔導具を使った。
君の魔力を一時的に枯渇させれば、あの伝承が本当なら、揺り籠が発動するはずだと――」
ベルは、目を伏せた。
手元の器に視線を落とし、湯気の揺らぎの向こうで、微かに囁く。
そして彼女は顔を上げ、まっすぐに彼を見た。
ベル「あなたが私を壊さなかったことには、礼を言うわ。でも……」
でも――その先の言葉は続かない。
ベルはただ、その先を語ることを拒むように、視線を逸らした。
カイルも、それ以上を求めなかった。
ただ静かに、息を吐く。
カイル「……俺は、君が壊されるのを見たくなかった。それだけなんだ」
それは言い訳でも、任務の否定でもない。
ただ一人の人間の、心からの言葉だった。
ベルは答えない。
けれどその沈黙には、わずかな温度が宿っていた。
薪のはぜる音が、静かに部屋の空気を満たしていた。