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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
ベルが目覚める少し前――。
扉の前に立つカイルは、木の壁にもたれ、わずかに息をついた。
その唇の端が自嘲気味に歪む。
笑うには痛すぎる胸の奥を、せめて皮肉で覆い隠すように。
あの日。あの廃れた礼拝堂。
朽ちた石の隙間から差す光の中で、彼女と目が合った瞬間から、何かが決定的に狂い始めた。
美しさだとか、神秘だとか。
そんな安っぽい言葉では到底言い表せなかった。
あの紫の瞳。
それは、彼の奥底にある、誰にも踏み込ませたことのない場所にいとも簡単に触れてきた。
指先すら届かせたことのなかった「内側」を、あの少女は目で見て、通り過ぎていった。
カイルが《蛇の法衣》に与えられた任務は明確だった。
対象の追跡、観測、可能であれば捕獲。
あの時、ベル魔力の枯渇とともに発動した不可侵の防壁。
赤紫の泡のように柔らかく見えて、いかなる干渉も受けつけない。
それが何よりの証明だった。
かつて伝承にのみ語られた、彼女の存在。
本来ならば、報告し、拘束し、連れ帰るべきだった。
それが、蛇の法衣としての使命であり、自身に課された責務。
けれど。
目を覚ます前から、いや――
あの泡の中で眠る彼女の姿を見た瞬間から、
カイルの中の「意志」は、音もなく崩れていた。
任務に必要な理性だけが、かろうじて形を保っていた。
カイルが(……今、動けば彼女は間違いなく戦う。あるいは、逃げる)
その未来を、彼ははっきりと予見できた。
自分の力では、それを止めることはできない。
カイル(だから、今は……“観測”だ)
それは逃避だった。
だが、カイルはそう自覚しながらも、自分の心に言い訳をすることでしか立っていられなかった。
ゆっくりと、扉に手をかける。
その向こうに、彼女はいた。
目を覚まし、静かに彼を見つめていた。
ベルの視線には、探るような温度があった。
拒絶でも、受容でもない。
ただ、言葉の代わりに揺れる光と影。
カイル「服はそこにある。君のサイズに合うか分からないが……きっと着られるだろう」
言いながら、わずかに笑みを作る。
それは緊張の膜を柔らかくするための、わずかな緩衝材だった。
カイル「……温かい飲み物を淹れてくる。少しだけ、待っていて」
背を向ける直前、彼女の視線が自分を貫いた。
警戒と、戸惑いと――どこかほんの少し、哀しみのような何か。
けれど、ベルは何も言わなかった。
その沈黙が、カイルには痛かった。
ひとことの拒絶よりも、ひとしずくの侮蔑よりも。
カイルは、それ以上耐えきれず、静かに扉を閉じる。
その背に残った、沈黙の余韻が重たく沁みた。
カイル(……もし、戻ってきたときに彼女がいなければ――それでいい)
呟く声は、扉の木に吸い込まれて消えた。
本当はそんなはずはなかった。
けれど、彼女を手に入れるための“理”が、今の彼にはもう掴めなかった。
カイル(……もともと、一人で捕らえられるような相手じゃない)
それは言い訳ではなく、事実だった。
古びた調理台に手をかけ、カイルは湯を沸かし始める。
薪がはぜる音が、わずかに部屋の静寂を和らげる。
そして、心の奥底で――それまで言葉にすらできなかった一つの願いが、ようやく輪郭を得る。
カイル(……どうか、まだ、いてくれ)