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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
赤紫の光に包まれながら、ベルの意識がふっと遠のいていく。
耳も、肌も、重さも失い、ただ沈んでいく感覚。
――深い、深い闇の中へ。
ベルが落ちた先の世界は、音を失っていた。
足音も、息遣いも、思考の気配すら沈黙に溶ける。
空間全体が凍りついたような静寂に包まれ、唯一残るのは“在る”という感覚だけ。
天井はない。
見上げれば、遥か高みに浮かぶ漆黒の月が、ゆっくりと満ち欠けを繰り返していた。
それは時間の概念すら忘れさせる、永劫の呼吸。
足元には床はなかった。
けれど確かに立っているとわかる。
無限に広がる星々の瞬きが、まるでその場所が“底”であるかのように、かすかに光を返していた。
その虚無に、ふわりと揺らめく紅紫の光が差し込む。
温もりをたたえた光は、何もないはずの闇に、やさしい気配をもたらす。
そして、光の中心に立つ男の姿。
白銀の髪に、紅紫の瞳を宿した、死神ルーヴェリス。
静けさのなかに、言葉よりも深く、彼の存在が染み渡っていく。
ベル「……ルーヴェリス……?」
ベルはまどろむような声でその名を呼んだ。
現の世界では思い出すことすら叶わなかったはずのその名が、自然に唇をつたう。
懐かしさに胸を締めつけられながら、彼の姿を見上げた。
ルーヴェリス「おかえり、ベル」
彼は静かに微笑む。
愛しげに、壊れものに触れるような手つきで、ベルの頬にそっと触れた。
ベル「……やっと、会えた」
泣き出しそうなベルの声はどこか幼げで、まるで夢の中の少女のようだった。
永遠を生きる不死の魔女としての威厳は、この場所には持ち込めないかのように。
ルーヴェリス「ずっと待っていた。……何度、君の名を呼んだかわからない」
その指が、ベルの淡いラベンダー色の髪をすくい、そっと口づける。
それはあまりに優しく、切なく、まるで永遠に触れられないものを慈しむような仕草だった。
ベルは彼の胸元に顔をうずめると、小さく震えながら囁く。
ベル「……どうして、この夢の中でしか、思い出せないの?」
ルーヴェリスは目を伏せ、肩を抱き寄せる腕に力を込める。
ルーヴェリス「私のことは忘れていたほうが、そちらの世界で苦しまなくて済む」
ベル「わたしは、もう……戻りたくないよ」
ベルの声がかすれる。
あの狂気の群れ。歪んだ欲望。
泣くことも叫ぶこともできなかったあの恐怖と絶望が、身体の芯まで染み込んでいた。
それは、幾度となく繰り返されてきた惨劇。
言葉にならず、涙が頬を伝う。
震える身体を、ルーヴェリスが抱きしめた。
額をそっと重ねる。
言葉はなかったが、彼の気配に満ちていたのは、抑えきれない怒りと胸を裂くような無力さだった。
ルーヴェリス「……すまない」
彼は苦しげに呟き、ベルの肩に顔を伏せる。
ルーヴェリス「私のせいで、君まで罰を背負わされている」
ベル「……ルーヴェリス……」
その名を呟きながら、彼の白い髪をそっと撫でる。
夢の中の少女のような、無垢な仕草。
けれどその指先は、確かに彼の痛みを受け止めていた。
ベルが涙を流すのを見て、ルーヴェリスの胸が軋む。
その涙をぬぐう指先は静かで震えていなかったが、内側には押し殺した痛みがうねり続けていた。
この命なき永劫の闇の中で、彼女だけが温もりだった。
もしも本当に、同じ時間を共に歩めたなら――それはどれほど幸福な罰だったろう。
だが、彼にはそれを選ぶことは許されない。
死神であるルーヴェリスは、不老不死という祝福を与えた罪で、神々によって現世への干渉を禁じられていた。
この世界の理を超えたその力は、神々の秩序に反するとされ、彼は封じられたのだ。
ただ一つ、唯一許されたのが、
“彼女が魔力を失い、死神の揺り籠に包まれたとき”、その内なる夢を通じての再会だった。
けれど、いつも彼女は深く傷ついた姿で現れる。
それは再会であると同時に、彼にとって最も苛烈な罰だった。
ルーヴェリスは静かに膝をつき、ベルの手を取り、額に口づける。
ルーヴェリス「……ベル」
彼女が苦しみに声を殺して震えているのを見て、胸が痛む。
それでもルーヴェリスは微笑んだ。
胸を裂くような悲しみの中でさえ、微笑んで、彼女を傷つけぬように。
そして彼は、ベルの唇に、深く、長く口づけをした。
魔力が、彼女の身体に流れ込んでいく。
ひび割れた器を、静かに満たしていくように。
ルーヴェリス「忘れて生きること、永遠に忘れられないこと。どちらがつらいのだろうか。」
ベル「いや、ルー、……離れたくない!また忘れちゃうの?」
紅紫の光が強く瞬き、ベルの身体を包んだ。
ルーヴェリスの姿は遠のいていく。
最後に浮かんだのは――悲しみに微笑むその横顔だった。
そして、ベルが目を開けると、それはもう夢ではなかった。
ベルは静かにまばたきをし、天井の光を見つめる。
胸の奥が、あたたかくて、寂しい。
何かを、失った気がする。
誰かに抱きしめられていたような、やさしい夢の余韻だけが残っていた。
ベル「……なんで……泣いてるの……」
頬を伝う涙を指で拭いながら、ベルはぽつりと呟いた。
理由のない温もりが、まだ彼女の中に、たしかに生きていた。