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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
カイルは、その夜のことを何度も思い返すことになる。
彼は闇の中、黒き観測者たちの一団に紛れるように彼女を追っていた。
正面から交戦する意思はなかった。カイルの目的は観察だった。
ベルが行使する未知の魔術。
そして、黒き観測者が惜しげもなく使う魔導具の数々。
それらはどれも、彼の知的探求心を大いに刺激するものだった。
だが、それ以上に彼の心を捉えたものがあった。
風に舞う髪の隙間から覗いた、ベルの横顔。
数の暴力に押されながら、集中を切らすまいと懸命に立ち向かうその姿は、静かな必死さに満ちていた。
危ういほど均整のとれた、美しさ。
ほんの少しの力で崩れてしまいそうな儚さに、胸の奥がざわめいた。
ふと、彼の唇がわずかに歪む。
――壊したら、どんな顔をするのだろう。
その想像に、胸が熱を帯びた。
自覚のない感情が、理性を溶かそうとしていた。
カイル(……まずい)
カイルは小さく息を吐き、感情を押し隠すように目を細めた。
そのときだった。
ベルの視線が、明確にこちらを射抜いた。
刹那の交差。
戦いの最中に、彼女は確かにカイルを見た。
冷たくも澄んだ瞳。その奥に宿る、決して揺らがぬ意志。
瞬間、カイルの胸の熱が、氷のように冷えた。
ベルの集中が、揺らいだ。
彼女はカイルの表情にわずかに戸惑い、次の瞬間、背後から迫る影に気づくのが遅れた。
負傷と同時に魔力の制御が乱れ、状況は一気に崩壊していく。
カイル「……俺のせいだ」
カイルは低く呟いた。
自分が、笑わなければ。
あの一瞬、感情を漏らさなければ――彼女は油断しなかったはずだ。
目の前で、観測者たちの理性が崩壊していく。
その中心で、ベルはもがいていた。
抵抗の術を封じられ、衣が裂かれ、無慈悲な視線に晒されながらも、泣きも叫びもせず、ただ感情を押し殺そうとしていた。
その姿に、カイルの胸は締めつけられた。
カイル(何をしている、俺は――)
視線が揺れる。
蛇の法衣の一員としての任務。
干渉せず、ただ観察し、記録し、知識を持ち帰る。
だが今、彼の目の前には、命を削られようとしている少女がいた。
理性と衝動がぶつかり合う中で、ふと脳裏に浮かんだのは、古い記録の一節だった。
――“死神の揺り籠”。
不死の少女が、魔力を完全に失ったときのみ発動する、死神の加護。
絶対の結界。
外部からの一切の干渉を遮断し、彼女を眠りへと導く。
カイル「……俺にできるのは」
カイルはゆっくりと腰のポーチから、小さな黒銀の魔道具を取り出した。
魔力封印の術具。
触れれば、対象の魔力を吸い出す禁呪の遺物。
蛇の法衣の内部でさえ、使用が制限される代物。
つまり――これを使えば、“条件”を満たせる。
気づかれぬよう混乱の渦に紛れ、ベルへと近づく。
声をかけることも、名前を呼ぶこともせず、ただそっと、その装置を彼女の肌へ押し当てた。
機構が作動した瞬間、空気が変わった。
ベルの体が、小さく震える。
魔力が引き剥がされるような感覚に、彼女の喉がかすかに鳴った。
次の瞬間―― 赤紫の光が湧き上がる。
観測者たちが息を呑んだ。 誰もが本能で理解する。これは異常だ。常識の外だ。
カイルはわざと声を張った。
カイル「近くにいると命を吸われるぞ! ここは死神の領域だ!」
咄嗟に吐いたその虚言が、恐怖と混乱に染まった観測者たちを一気に押し流す。
「な、なんだあれは……」
「離れろ、巻き込まれる!」
次々と後退し、やがて全員がその場から逃げ出した。
急激に現実に引き戻された彼らは、その罪悪感からか、恐怖からなのかは分からないが、その場に戻ることはなかった。
赤紫の光が完全な球体となり、ベルの身体を包み込む。
カイルはその場に膝をついた。
中で、ベルは静かに眠っていた。
もう、誰にも傷つけられることはない。
彼はそっと、その殻に額をつけた。
蛇の法衣の古い記録――書物の中でしか存在しなかったはずの現象。
死神の眼差しのような、不可侵の殻が、今ここにある。
目の前のその光景が、カイルの心に爪を立てて、深く、強く掴んだ。