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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
ベルの首に触れた魔導具が、金属音とともに固定された。 その瞬間、彼女の内奥に針のような痛みが走る。
異物が、神経を伝って侵入してくる。それは明確な痛みではない。
だが、皮膚の下を這い、筋肉を鈍く痺れさせ、骨の内側を撫でるような違和感が、体内を静かに満たしていく。
足元には幾重もの魔法陣が展開され、空間の重力が歪む。
詠唱が重なり、空気は濁った墨のように変質していく。
その拘束は、外側から体を縛るものではなかった。
首元の魔導具を介して、魔力は体内へと流れ込み、神経系を内側から制圧していく。
まるで、脳から肉体への命令を一つひとつ遮断していくかのように。
手が、脚が、指が、思考に応じて動かなくなる。
それは肉体を縛るものではない。
神経そのものを鎖に変え、意識と身体の接続をじわじわと断ち切っていく“静かな拷問”だった。
ベル(……中から縛ってくる……)
胸の奥に、嫌悪と不快が膨らむ。
冷たい何かが神経を這うたびに、体の奥が引っかき回されるような感覚に襲われる。
自分という輪郭が、内側からぼやけていくような錯覚。
思考は鈍り、まぶたが重く落ちる。
鼓動が一拍遅れ、呼吸のリズムも崩れていく。
意識と肉体の“ずれ”が始まっていた。
「動きを封じた」
「魔力も、抑えこんでいるはずだ」
観測者たちの声が聞こえる。だが、遠く水中から聞こえるように曖昧で、意味を結ばない。
それでもベルは、崩れなかった。
彼女は確かに縛られていた。体も、魔力も、すべてを封じられていた。
だが、少女はなお立っていた。
ラベンダー色の髪が、夜風に揺れる。
深く静かな夜のような瞳は、怒りも恐怖も宿さず、ただ燃えるような意志だけを残していた。
その姿は、あまりに異質だった。
血と煙に染まる戦場の只中にあって、彼女だけが崇高で、侵せぬ神聖のようだった。
――それこそが、死神の祝福がもたらした“副作用”。
奪う力を持つ魔力は、彼女が意図せずとも、周囲の精神に干渉しはじめる。 彼女の存在が、そこにいる者たちの「視線」と「心」すらも奪っていく。
観測者たちの視線が、一斉に彼女に吸い寄せられる。 その目には、もはや任務への集中などなかった。
「……なんだ、この感覚は……」
「見ているだけで、心が焼かれるようだ……」
呟きの声が、誰のものか曖昧に響く。
「恐れるべきはずなのに……」
「なぜ、目が……離せない……」
その感情は、理性による拒絶ではなかった。 それは、熱に浮かされた者の囁き。
触れてはならないと知りながら、それでも惹かれてしまう者の声だった。
冷酷であるべき観測者たちの思考に、静かに裂け目が生まれる。
詠唱は乱れ、術式の軌道がわずかに歪む。 気づかぬうちに、彼らの手が震えていた。
「こんな存在は……」
「世界にあってはならないはずなのに……」
だが、彼らの胸に満ちていたのは恐れではなかった。
それは、焦がれるような憧れと、禁忌への渇望。
理性では触れてはならぬとわかっていながら、魂が惹きつけられていく。
本来、記録し葬るべき“神秘”に、彼ら自身が心を囚われていく。
捕らえられた対象に心を奪われる。
それは、観測者としての最大の禁忌だった。
だが、立ち尽くす彼女はあまりに静かで美しく、
まるで神殿の奥に据えられた、決して触れてはならぬ神像のようだった。
その奪う魔力は、視線を、感情を、そして理性さえも知らず侵していく。
沈黙を破ったのは、一人の男だった。
「……所詮、存在してはならぬ者だろう?」
その声には、もはや理性の温度はなかった。
感情の渦が、底の方から滲んでいた。
「ならば――どう汚そうと、咎められる道理などあるものか」
それは、崇高な聖物を“汚す”ことで、自らの存在を刻もうとする狂者の論理。
男が一歩、また一歩とベルに近づいていく。 その目は熱に浮かされ、理性を手放した獣のようだった。
誰かが躊躇いながらも、それに続いた。
そして、連鎖は始まる。
一人、また一人と、理性という皮を剥がされた観測者たちが、少女のもとへと歩を進める。
――まるで、祭壇に捧げられた供物に群がる盲信の徒のように。
ベルの瞳が、わずかに震える。
逃げられない。 声も、出ない。 魔力も、届かない。
ベル「……っ!」
声にならない叫びが、喉の奥で震える。
そして――
誰かの手が、彼女の肩に触れたその瞬間。
まるで世界の色が一気に抜け落ちたかのように。
ベルの表情から、命の気配が消えた。
恐怖。嫌悪。諦め。怒り。悲しみ。
壊れた鏡のように砕けた感情が、波のように揺れていた。
それは、人としての尊厳すら奪おうとする者たちに囲まれながら、彼女が見せた絶望の静けさだった。