4-29
支部を後にしたノクスは、通りを歩きながら周囲に目を走らせた。
この町は小さい。家々は石と木で組まれ、路地も幾本かしかない。
トーノがどこに行ったとしても、すぐに見つけられると確信があった。
案の定、広場の片隅にぽつんと置かれた木の長椅子に、見覚えのある姿を見つけた。
夕暮れの光に照らされ、少し疲れた様子で背を預けるトーノが座っていた。
その手には、蜜がとろりとかけられた果物の串が握られ、反対の手には小ぶりのパンがいくつも入った布袋が抱えられている。
ノクス「トーノ?どうしたんだよ、それ」
問いかけに応えるように、彼がゆっくりと顔を上げる。
だがその視線の色――その目に宿るのは、トーノではなく玄宰だった。
玄宰「露店を出していた女が、ちょうど店じまいの時間でな。残ったのをトーノにくれた。……盗んだわけじゃない」
その声音は淡々としていたが、ノクスはその一言に内心ほっと息をついた。
玄宰がそう続けた。
玄宰「……その女が、マルベラに似ていたんだよ。髪の色も、背格好も。……そこから、あいつ、急に黙り込んでな。代わりに私が前に出るしかなかった」
玄宰は果物の串を見下ろして、軽くため息をついた。
玄宰「で、結局私は荷物持ちだ。……甘い匂いは苦手なんだがな」
その声にはわずかな呆れと、何かを庇うような優しさが滲んでいた。
ノクスはふっと微笑み、その隣に腰を下ろした。
ノクス「……ありがとな」
その一言に、玄宰は返事をせず、ただ黙って空を見上げた。
少しの間、夕暮れの光と広場の喧騒を聞きながら、三人の気配が一つの静けさの中に溶けていった。
薬草を売って得た銀貨は、決して多くはなかった。
だが、この町の片隅にある小さな宿で、一晩休むには十分だった。
ノクスは借りた部屋の窓際の椅子に腰を下ろし、足元の鞄に目を落とす。
その向かいのベッドでは、宿に着いた頃にはすっかり元気を取り戻したトーノがもらったパンにかじりついていた。
パンを食べ終えると、次にトーノは果物の串にかぶりついた。
甘い匂いは苦手、と言っていた玄宰は今トーノの意識の奥に沈んでいるのだろう。
その甘い蜜の香りに包まれながら、ふとベッドに横たわり、気づけばトーノは深い眠りに落ちていた。
ノクスはその寝顔に視線を向ける。
肩の力が抜け、穏やかな呼吸を繰り返すトーノの姿。
その中に眠る、もう一つの存在。
玄宰。
三人の意志が交錯し、混ざり合った奇妙な魂の同居。
本来なら、そこにひとつの人格が余計にあること自体が異常なのだ。
ノクス(……あいつを、消す方法を探していたはずだった)
ノクスは自分の胸の奥にひっそりと巣くう迷いを、認めたくないような思いで見つめる。
あれほど憎んでいたはずだった。
あの夜のエン=ザライア、過去から続くベルとの因縁をもつ玄宰。
その男の魂を切り離す術を求め、知識の底を探ってきた。
だがこの数日、森を抜け、町へたどり着くまでの間に見た玄宰の姿は、記憶にあるそれとは違っていた。
魔物を倒し、薬を調合し、トーノを守ろうとし、荷物持ちにさせられても黙って付き合うその姿。
それが偽りだと、断言できるほどにノクスの心は強くなかった。
ノクス(……それでも、ベルを利用し、傷つけた罪は消えない)
彼の中で、断罪と赦しの天秤が静かに揺れていた。
けれど今は、眠るトーノの肩をそっと見守ることしかできなかった。
外では町の灯が風に揺れ、窓辺に影を落としていた。
ノクスは静かに息を吐くと、ようやくその鞄に手を伸ばした。
ノクスは、古びた鞄の留め金を外す。
かすかな軋み音とともに開かれたその中から立ちのぼるのは、懐かしい金属と革の匂い。
それはかつての自分、カイルだった頃の記憶の匂いでもあった。
中に入っていたのは、あの日の任務の、月の夜にしか姿を見せない魔物を捕らえるために使ったものが大半だった。
まず目に入ったのは、小さな水晶を抱えた黒鉄のペンダント。
使用者の魔力に反応し、肉眼では見えない灯りを灯す魔導具。
月光の届かぬ闇の中、獲物を引き寄せるために何度も使ったものだ。
その隣には、微かに香る小瓶。
特定の魔物の嗅覚を刺激し誘き寄せる香。
瓶の口には布が詰められ、すぐに使えるようになっていた。
未使用のままだが、封は確かにカイルの手によるものだ。
鞄の底にたまったいくつかの素材は、ぱっと見はただのガラクタに見えた。
だがノクスはそれを手に取る。
月明かりの下、魔物を待つ合間に拾い集めた――小さな鉱石、欠けた獣の牙、裂けた魔物の皮片。
記憶の断片が静かに蘇る。
その時、革の仕切りの下から見つけたものに、ノクスの指が止まった。
それは頑丈な布にくるまれた、手のひらほどの大きさの小箱だった。
ノクスは静かに包みを開き、その中を覗き込む。
中に収められていたのは、錆もほこりもほとんどない道具箱。
精密な魔導具の整備に使う専用の器具が、きっちりと整えられたまま収まっていた。
刃先の細い彫金用のナイフ、魔力を通す細工針、封印紋を刻む小さな刻印石。
汎用性の高い道具たちは、ノクスにとってまさに宝だった。
ノクス「……残ってたんだな」
ノクスは小さく息を吐き、思わず口元を緩めた。
この数日、魔導具の整備にも事欠いていた。
これさえあれば、簡易的な魔導具の作成や、壊れかけた道具の調整もできる。
そしてそれ以上に、この小箱が今も無事であったことが、かつての自分が確かにこの世界に存在していたことを、静かに肯定してくれるように感じた。
ノクスは見つけた道具箱をそっと机の上に置くと、もう一度ベッドの方に視線を向けた。
薄暗い灯りの中で、トーノは丸くなって眠っている。
その寝息は静かで、穏やかだった。
あの森を抜けるまで、魔物との戦いはほとんど玄宰に任せきりだった。
ノクスはそう思い返しながら、そっと目を伏せた。
どのように受け止めているのかは分からない。
だが、玄宰とひとつの体を共有しているトーノにも、決して小さくない負担だったはずだ。
ノクスは静かに息を吐くと、改めて机の上に視線を落とす。
手持ちの道具と、鞄に残っていたいくつかの素材。
それらを一つひとつ確認しながら、思考を巡らせた。
敵を打ち倒す力はなくとも、身を隠すための幻影を生む魔導具や、魔物の注意を逸らす囮くらいは作れるかもしれない。
わずかな魔力の伝導石、獣の皮片、香料の残り。
簡易な仕掛けの組み合わせで、十分な効果を発揮する可能性はある。
ノクス「……せめて、少しでも二人の助けになれれば」
誰にともなく呟きながら、ノクスは手を動かし始めた。
細かな工具を握り、素材に触れるその指先は迷いなく、そして確かだった。
かつての自分が積み上げた技術が、今もなお、彼の中で息づいていた。
灯りが揺れる静かな部屋の中、ノクスはただ黙々と作業に没頭する。
少年の眠りを妨げぬように、音を立てることなく――その手には、確かな意志と、静かな祈りが宿っていた。
いくつかの道具の目処が立ち、ノクスは手を止める。
視線を感じて振り向けば、そこには眠っていたはずのトーノがベッドに腰をかけていた。
いや、トーノの姿をしていても、その瞳は別の意志を宿している。
玄宰「器用なものだな。これだけの材料と道具で、ここまで仕上げるとは」
低く落ち着いた声。
言葉の主は玄宰――少年の中に潜む、もうひとつの人格だった。
ノクスは警戒するでもなく、淡々と応じる。
ノクス「長いこと、そういう役回りだったからな。手に入るものでどうにかするのは、慣れてる」
玄宰は机に近づき、作りかけの魔導具に目をやる。
その瞳には研究者としての好奇と、職人の技術を見極める鋭さが宿っていた。
玄宰「これは……幻光結晶に香料を通して、気配の残滓を拡散する仕組みか。
だが、ここの封印紋はもう少し広げたほうがいい。魔力の流れが滞るぞ」
ノクスはその指摘に眉をひそめたが、すぐに目を伏せ、素材を手に取る。
ノクス「……確かに。転写の角度が少し甘かったかもしれない」
玄宰「素直に認めるのか」
ノクス「あの街の機構を整えていたお前が言うのなら、試してみる価値はあると思っただけだ」
互いの視線が短く交わされ、再び道具へと戻る。
時折交わされる会話は、かつての職人と研究者のようでもあり、どこか不思議な穏やかさすら漂っていた。
ノクスは玄宰の言葉に耳を傾けながら、素材の配置を微調整していく。
わずかな手直しで、魔力の流れが変わる。その効果の確かさに、ノクスもまたわずかに目を細めた。
夜は静かに、更けていく。
月明かりが窓から差し込む中、かつて敵であり、今は同じ旅路を歩む者たちの手が、ひとつの目的に向かって動いていた。