4-28
ノクスの視線は、カウンターの奥に置かれた革の鞄へと静かに注がれていた。
客の手が届かないが、あえてしまい込まれてもいない場所。
目立たない位置に置かれた、古びた革の鞄。
それはかつて、自分が「次に来るときに受け取る」と言って、メランに預けたものだった。
くたびれた皮革の手触りが、指先の奥でじんわりと蘇る。
そして記憶の底、かつてカイルであった頃の思い出が音もなく浮かび上がる。
メラン「……あんたも大変だったね。月の夜にしか現れない魔物の素材集めを、一人でやるだなんてさ」
木のカウンター越しに交わされた、親しげな声。
使い魔を送り出したばかりのメランが、気軽に言葉をかけてきた。
カイル「何日徹夜したかな……。まあ、任務は選べるもんじゃないからな。……メランもそう思うなら、手伝ってくれてもよかったのに」
カイル――かつてのノクスは肩を竦めてそう返し、椅子に腰を下ろした。
メラン「私はここにいるのが、いちばん大事な仕事なんだよ。……でも、まぁご苦労さん」
カウンターの向こうでは、メランが魔物の素材を丁寧に選定しながら、本部へ送る報告書を手早くまとめていた。
彼はその様子を、今と同じ椅子に腰を下ろして、ただ黙って見ていた。
あのときも、こうして素材と向き合う彼女の背を、少しだけ安心して眺めていたのだ。
ほんの短い静寂と穏やかな時間だった。
カイル「……今夜は、久しぶりにゆっくり眠れそうだ」
そう呟いた、まさにそのとき。
カウンターの外で空気がひやりと揺らぎ、黒い煙がゆるやかに立ち上がる。
それは一匹の黒蛇――蛇の法衣が好んで扱うその影は、メランの使い魔だった。
するりと音もなくカウンターに這い上がると、口に封書を咥えている。
漆黒の体に浮かぶ淡い紋様は、光を吸い込むように沈んでいた。
メラン「……おかえり。って、何か持って帰ってきてるね」
メランが封書を受け取ると同時に、黒蛇は細い影の糸となって宙に溶け、煙のように消えた。
封には、蛇の法衣の紋章が押されている。
メラン「悪いけど、また仕事みたいだ」
中に記されていたのは、「不死の魔女が辺境に姿を見せた」という報。
その動向を追うため、《黒き観測者》の監視を命じる一文だった。
カイルはそれを読んで、小さくため息をついた。
カイル「……長くなるな、これは」
彼はそっと鞄の一つを外すと、中身を確認して革の鞄をメランへ差し出した。
カイル「悪いけど、これ預かっておいてくれ。無事に戻れたら取りに来る」
メラン「はいはい、気をつけて行っておいで。……ちゃんと、帰ってくるんだよ?」
――そして今、あの時と同じ椅子に腰かけて、
ノクスはメランが自分の持ち込んだ薬草を選定する姿を眺めていた。
同じ光、同じ風景、ただ一つ違うのは「彼女の中から自分の名前が失われている」ということだった。
それでも、あの鞄は忘れ去られることなく、ここに在り続けていた。
メラン「うん、選定は終わったよ」
そう言ってメランは、カウンターに広げられていた薬草や素材を一つひとつ丁寧にまとめ直す。
手際は良く、それでいてどこかあたたかい所作だった。
メラン「全部……買い取らせてもらうよ。たいして高い値はつけられないけどさ。こっちも人手も素材も足りてないし、助かるよ」
ほほ笑むその顔には、心からの労いが滲んでいた。
メラン「それにしても……あんた、若いのに素材の扱いが上手いね。見た目によらないなぁ」
ノクス「ありがとう。……多少は慣れてるからな」
ノクスは素直に頷き、差し出された小袋を受け取る。
中には銀貨が数枚――決して多くはないが、森の中で得たものにしては上々だ。
ノクス「……なあ、悪いんだけど」
ノクスは静かに、けれどはっきりと指を差す。
ノクス「森を抜ける途中で、鞄をなくしてしまって。……あれ、譲ってもらえないか?」
唐突な申し出に、メランは一瞬驚いたように目を瞬かせた。
メラン「ん? あれかい? あれはね、確か誰かに預かったはずなんだけど……いつ、誰からだったか、さっぱり思い出せないんだよ」
そう言って、メランは自分のこめかみに指を当てると、呆れたように肩をすくめて笑った。
メラン「まったくね……情けないもんさ。でも、もう十分待ったはずなんだ。たしか、五年か六年くらい……。最近じゃあ、うちに来る常連のほうが“まだ置いてあるのか”なんて言うくらいでさ」
言葉を継ぎながら、メランは鞄の方に目をやり、少しだけ黙った。
メラン「……ま、これも何かの縁だ、持っていきなよ。あんたが使ってくれたほうが、あの鞄も喜ぶだろうしね。
それに安く素材を買い取らせてもらったんだ、礼の代わりになるならちょうどいいさ」
ノクスが返す言葉を探すより早く、メランは軽く手を振り、迷いのない手つきでその鞄を差し出した。
メラン「たいした物は入ってなかったはずだけどさ。手ぶらよりはマシでしょ?」
その笑みには、過去を無理に掘り返そうとしない、ただ今という時を信じて生きる人間の優しさがあった。
ノクスはゆっくりと手を伸ばし、鞄をそっと受け取る。
掌に伝わる革の感触に、胸の奥がじくりと疼いた。
言葉にはできない想いが、静かに、けれど確かに心に残った。