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4-27

町に足を踏み入れてから、ノクスはしばらく沈黙していた。

行き交う人々の声、風に揺れる洗濯物の香り、焼き立てのパンの匂い――どれもが懐かしく、遠い記憶を呼び起こす。

けれど、彼は振り返らずに口を開いた。



ノクス「……行くところがある」



傍らにいたトーノが、少しだけ顔を傾ける。



ノクス「トーノは……町を見て回るか?お前が一緒なら大丈夫だろ」



その言葉には、明確な意図があった。

“トーノ”に向けられた言葉でありながら、その奥に潜む“玄宰”への問いかけでもある。



トーノは一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、大きく首を振って、こくんと頷いた。

その動きは年相応の少年のようで、まるで心の奥に灯った小さな自由を確かめるようだった。



そして彼はふいに駆け出す。

風を切って、石畳を軽やかに駆けていくその姿に、ノクスは目を細めた。


小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで見送る。

その後、ゆっくりと視線を前に戻した。



通りの一角。

ひっそりと佇む古びた建物がそこにある。


小さな木の看板には、今も変わらず2匹の蛇の紋章が彫られていた。

それは“蛇の法衣”の象徴。

けれどこの町では、ただの薬屋として知られている。


看板の下に刻まれた薬屋の屋号も、記憶のままだ。



ノクス(……まだ、残っていたか)



心の奥で何かが軋む音がした。

それでもノクスは一歩を踏み出す。


きい、と扉を押し開けた瞬間、風鈴のような音が店内に鳴り響いた。



メラン「いらっしゃい、旅の方かな? めずらしいね」



カウンターの奥から顔を出したのは、かつての顔見知りだった。

時の流れを感じさせるわずかな変化――それでも、ノクスには彼女だとすぐにわかった。



ノクス(……メラン)



彼女の瞳には、かつての“カイル”の面影は映っていない。

けれど、それでいい。


ノクスは静かに頷くと、一言も発さずに店の中へと足を踏み入れた。


カウンターの前に立つと、ノクスは無言で鞄を肩から外し、静かに口を開いた。



ノクス「……ひどい道のりだったよ。物資も底をついてね、少しでも足しになればと思って薬草を採ってきた。買い取ってもらえるか?」



そう言いながら、彼は植物を使い編んだ簡易的な袋の底をあさり、森を抜ける途中で集めていた薬草の束を広げる。

中には燻製にした魔物の肉や、魔力補給のために仕方なく口にしたムカデのような魔物の串焼きまで混じっていた。



メラン「へえ、こりゃまた……なかなか珍しいもの持ってるね」



カウンターの奥から覗き込むようにしていた女性が、感心したように目を細める。

無造作に置かれた薬草を一つひとつ手に取り、丁寧に品定めを始めた。



メラン「この店はね、いつも人手が足りなくて困ってて。買い取りは大歓迎だけど……うちも金回りがいいわけじゃないから、値をつける前にちょっと選ばせてもらうよ」



そう言って彼女は、カウンターの脇にある古びた木製の椅子を指さす。



メラン「座ってて。時間かかるかもしれないからさ」



ノクスは静かに頷き、促されるまま椅子に腰を下ろした。

棚の向こうで忙しなく動く彼女の姿に、どこか懐かしさを感じながら目を細める。



メラン「私はメラン。ここの店番みたいなもんさ。……あんたの名前は?」



不意に投げかけられた問いに、ノクスの手が一瞬止まった。

その指先からわずかに力が抜け、彼の瞳が、ほんのわずかに揺れる。


“カイル”。

もしも、その名前を口にすれば、彼女の中に失われた記憶が蘇る。

かつて傍らにいた彼女が、自分を思い出してくれる。



けれど、それは許されない。



名を手放した時、すべては断ち切られたはずだった。

たとえ彼女の記憶の片隅に、あの頃の気配が残っていたとしても。



ノクス「ノクスだ。よろしく頼むよ」



言葉は静かに、けれど確かな響きをもって口をついた。

カイルの名を抱きしめながら、それを明かさぬまま。

再会は心を揺らしたが、ノクスの仮面を破るほどではなかった。



目の前のメランは、笑顔で頷きながら、再び薬草の束に目を戻す。

彼女の中にあるはずの欠けた記憶。その空白に、ノクスはそっと目を伏せた。



メランがノクスの持ち込んだ品を一つひとつ手に取り、丁寧に選定を始める。

薬草の香りと微かに燻された獣肉の匂いが、静かな空間に漂っていた。



ノクスはその間、ゆっくりと店内を見渡す。

木の棚や薬壺の並び、乾いた薬草を吊るした天井梁。

最後に訪れたときと、大きくは変わっていなかった。



ただ一つ、確かに変わったものがある。

それは、目の前で薬草を選びながら口笛を吹いているメランの姿だった。

かつて“カイル”だった頃に並んで話した彼女と、今ここにいる彼女。

年を重ね、落ち着いた雰囲気を纏うその姿は、記憶の中にある少女とはもう違っている。

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