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※内容に変わりはありませんが、文章を整えました。
《深淵の瞳》が解放された瞬間、異様な気配があたりに満ち、ベルの身体のまわりに微細な震えが走った。
目には見えないが、魔力の流れに異常が生じている。
ベル(……干渉してきてる? 私の魔力に……)
胸の奥に、不快なざわめきが広がる。
まるで誰かが無理やり心の奥へと手を突っ込もうとしているかのような。魔力の根源を掻き乱す違和感。
嫌悪と、激しい拒絶の感覚。
ベルは小さく、しかしはっきりとつぶやいた。
ベル「あの視線が原因。それなら」
その瞳が、淡く赤紫に染まる。空気が波打ち、世界の輪郭が歪んだ。
それは“死の力”による拒絶。
生きとし生けるものを基準とする魔力干渉に対し、ベルの存在そのものが応じることを拒絶したのだ。
自身の存在を奪う、それは気配だけでなくその姿さえも相手には探られない。
――彼女は、観測という行為の「枠外」へと、意図的に身を投じたのだ。
《深淵の瞳》が震えを増し、観測者たちの内側に、鋭い警鐘が鳴り響く。
「……《深淵の瞳》が、彼女を見失っている!」
「なぜだ……? そこに“存在”はあるはずだ。確かに!」
だがその瞬間、観測者たちの目にも、少女の姿は完全に消えていた。
まるで空間ごと、ベルという存在が切り取られたかのように。
彼女の姿も、気配も、魔力の痕跡さえも。
この世界から一時的に奪われた。
静寂が場を包む。
次の瞬間、宝玉が悲鳴のような音を立てる。
観測者たちが再びベルを捉えたのは、《深淵の瞳》に彼女の剣が突き立てられた、その刹那だった。
不吉な魔力から顕現したその剣は、まるで呪いそのものを宿すように、軽々と宝玉を貫いた。
《深淵の瞳》が砕け散る。
赤い閃光が夜闇を裂き、観測者たちの身体を弾き飛ばした。
だが、彼らは諦めない。
希少な魔導具を次々と展開し、空間移動の阻害、魔力の封鎖、感知妨害。
あらゆる術式を重ねて、ベルの逃走経路を少しずつ、だが確実に削り取っていく。
――最後の切り札である《深淵の瞳》を失った彼らは、それを無駄にするまいと、狂気を感じるほどの執着で、ベルを追い詰めた。
ベル(まずい、このままじゃ……)
ベルは歯噛みした。単騎ならば、どれほどの敵も相手にならない。
だが、数が違いすぎる。
《黒き観測者》たちは、《蛇の法衣》の動きを察知したのか、先手を打つようにベルを拘束しようとしていた。
末端の構成員にさえ貴重な呪具を惜しげもなく配り、使い捨てるように彼女へとけしかけてくる。
呪具の連鎖が空を穿ち、大地を砕く。
圧倒的な物量が、ベルの動きを徐々に鈍らせていった。
防御も、回避も、すでに限界に近い。
たとえ一撃で戦況を覆すほどの魔力を秘めていても、いまのベルには、それを“解放する余地”がない。
畳み掛ける攻撃の波は、払っても払っても途切れることがなく、
一撃ごとに、ベルの集中が削られていく。
ベル(……諦めの悪い)
唇をかすかに噛むが、その言葉は心の中に溶けて消えた。
その時、視界の端で何かが揺れた。
蛇の紋を纏った黒衣の男が、木陰に佇んでいる。
戦場の外に立ち、まるで観客のように、目を細めてベルを見つめていた。
その顔には、微笑のような、嘲りのような、あるいは言葉にできぬ“何か”が浮かんでいた。
ベル(……今朝、出会った“蛇”の者)
悪意でも敵意でもない。けれど、理解できない感情が男の内側から滲んでいた。
それが、ベルの胸に小さなざわめきを生む。
――何故、ここに?何故、手を出さない?
その問いが揺らぎとなり、魔力の奔流に一瞬の隙を生んだ。
「今だッ!」
怒号とともに、背後から殺到する気配。
次の瞬間、冷たい金属の輪が首筋に押し当てられた。
カチリ――硬い音が響き、呪具が作動する。
それは魔力封鎖具――対象の魔力を即座に遮断し、拘束するための“首輪型”の抑制具だった。
ほんの刹那の油断。
だがそれは、彼女の自由を奪うには、あまりにも十分すぎた。