4-23
ノクスは意識の底で、ゆっくりと沈んでいく感覚を覚えていた。
熱に浮かされるような思考の波のなかに、ふと、馴染み深い静寂が広がる。
――ここは……?
見覚えのある長い回廊。
天井まで届く高い本棚。
淡く揺れる燭台の灯り。
重ねられた書と書の合間を、風が通るはずもないのに、薄紙がはためく音が耳をくすぐる。
ルーヴェリスの書庫。
夢の中だと気づく前に、足が自然と歩き出していた。
手は震えている。けれどその指は、迷わずあの一冊を引き抜いていた。
古びた革装の厚い本。
何度も読んだはずなのに、まるで初めて開くかのように、文字がじわじわと浮かび上がる。
「知識は毒にもなる。だから誰にも、これを口にしてはならぬ」
背後から聞こえてくる、静かで冷たい声。
振り返らずともわかる。
ルーヴェリス。
死神はその目を伏せることなく、ノクスをじっと見下ろしていた。
「これは禁忌だ。君が広めれば、世界に歪みが生まれる」
あのとき、ノクスは確かにうなずいた。
何も知らずに手を伸ばす者が、どれほどの痛みを生むか――
それを誰より知っているのは、ルーヴェリスだったから。
そしてノクスもまた、誓った。
その知識を誰にも渡さぬと。
けして、傷つけるために使わぬと。
――それなのに。
ノクスの指が、夢の中で震える。
ベルを傷つけ、貶めた存在。
その一片が、トーノの中に残っている。
それを追い出すために、この知識を使うことは――
罪なのだろうか?
彼には、わからなかった。
そしてルーヴェリスの気配は消える。
ページをめくるたび、さまざまな記述が断片的に脳裏をよぎる。
魔物に体を奪われた者が、自我を取り戻す方法。
そこには、魔物の本体を滅ぼすことで魂の紐が断たれた例が挙げられていた。
あるいは、複数の意識が宿る病。
治療によって、それらを統合することで安定させたという記録。
――だが。
トーノの場合、どちらとも違う。
宿っているのは、魔物ではない。
病と呼べるものでもない。
意図的に作られた体と、融合した魂と、溶け合いかけた人格。
ノクス「……足りない」
夢のなかのノクスが、呻くように言葉をこぼす。
この書庫のどこかに、まだ知らぬ何かがあるのではないか。
自分がまだ探し当てていない、ただ一つの方法が。
記憶の奥底に手を伸ばすように、ノクスは本を手放し、奥へと歩を進めていく。
扉のない扉を越え、目に見えぬ段差を下り、ただ“知”の迷路のような通路を彷徨う。
誰の声も、もう聞こえない。
ただ、自分自身の問いだけが、胸の奥でこだまする。
――これは救いなのか、それとも背信か。
魂の分離。
運命の断裂。
意識の締め出し。
魔術の理論、医学の症例、錬金術の応用記録。
あらゆる知識が波のように押し寄せては、また遠のく。
ノクスは夢のなかにいながら、それがただの夢ではないことを直感していた。
ここはルーヴェリスの書庫の姿を借りた、彼自身の記憶と知識の海。
かつてカイルと呼ばれていた自分が、数えきれない夜と命を費やして読み解いてきた、知の総体がこの書架を形成している。
指先が棚をなぞるたび、無数の本がわずかに震え、囁くように情報を放つ。
魂に関する記述は、意外なほど多かった。
それは神々の技であり、古の魔術師たちの探究であり、忘れられた異端たちの血塗られた成果でもあった。
ノクス「もともと、玄宰は……」
ノクスは呟く。
自我のない器を作り、それを奪ってきた。
トーノも、そうして作られた存在だ。
ならば。
ノクス「玄宰の魂を宿す、新たな器があれば」
そこまで考えて、ノクスは激しく首を振った。
そんなものを自分が、また造るというのか。
トーノのような存在を、もう一人。
自我を持たないまま生まれ、捨てられるかもしれない存在を。
それは、もう許されることではない。
その時だった。
一冊の本が、棚から音もなく滑り落ちた。
硬い床に落ちたその反響が、夢の中とは思えぬほど明瞭に響く。
ノクスは反射的にその本を拾い上げた。
革表紙は使い込まれて柔らかく、表題には擦れて読めない文字が浮かんでいる。
だが開かれたそのページには、見覚えがあった。
――神の怒りに触れた者の魂は石に封じられ、
そこに宿った悪しき心のみが削り取られ、
清き心だけが体に戻された――
神話の時代の冒険譚。
信仰と寓話が混ざり合うような語り口。
かつてルーヴェリスの書庫で、この物語を半ば眠りながら読んだ記憶がある。
ほんの一節、短くも曖昧な伝承。
だが、今のノクスにはその一文が異様なほどに眩しく思えた。
――本当に、そんなことが可能なのか?
魂を取り出し、悪しきものを識別し、削り取り、残りを戻す――
それが現実の術理に照らしてどれほど無茶か、彼には理解できていた。
それでも、この一文に、縋るしかなかった。
魂を封じたという“石”についての詳しい記述は、どこにもなかった。
ただ、断片的な言い伝えのように残されていたのは魂を切り離すために神が使った“葉”の存在だった。
それは、人の目に触れることなく、
魔物の瘴気すら届かぬ、
清められた地で育つという“聖なる木”の葉。
その葉で魂をなぞれば、罪を削ぎ落とし、
正しき心だけを選り分けることができる。
そう記されていた。
まるで詩のように、伝承の一節として。
だが、それがどこにあるのか、
そもそも本当に存在するのかさえ、記録には残されていない。
空想か、信仰か。
あるいは、かつて一度だけ起こった奇跡の、忘れられた痕跡か。
夢の書庫は静まり返っていた。
誰も現れず、何も語らず。
ただ、そのページだけが、炎に照らされたように、赤く滲んで見えた。