表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
197/320

4-22

エン=ザライアの近く。

日の光がまだ届くあの丘に、マルベラを静かに眠らせた後、ノクスとトーノは歩き出した。


呪われた街の周囲には、人の住む村や集落はもう存在しない。

それでも、彼らは先へ進む。

ふたりは古びた地図の記憶を頼りに、かつての道を手探りでたどっていく。


ふと足を止め、ふたりは未だ視界に映るエン=ザライアの崩れかけた観星塔を振り返った。



ノクス「……あの街に戻る気はないんだな」


玄宰「当然だ。あそこには、もう何もない」



口を挟んだのは、トーノの声だった。

けれどその響きは、どこか異質で、玄宰のそれだった。



玄宰「支脈の呪徒は潰えた。街を保っていた連中も全滅した。

残ったのは、壊れた魔力と、呪われた骸だけだ」


ノクス「……全部、闇に飲まれるか」


玄宰「いずれはな」



淡々と告げられる未来。

その言葉の中に、後悔も哀惜もなかった。



玄宰「私はもともと、技術者をまとめる役割を持った二人の長と、組織に資金を出していた出資者が融合してできた存在だ」



ノクスは目を伏せる。

かつての魔導都市、そして今のエン=ザライアを裏で支えていたのは、支脈の呪徒たち。

そして、それらを取りまとめていた黒幕が、いま隣を歩いている。



ノクス「……お前がいなければ、あの街はもっと早く崩れてたな」



ぼそりと漏らした言葉に、トーノがふと足を止めた。



玄宰「皮肉か?」


ノクス「どうだろうな」



ノクスも立ち止まり、遠くを見やる。



玄宰「マルベラもいないあの街になんの未練もない」


ノクス「……それは、トーノの言葉か?」



応えはなかった。

ただ、ふたたび無言で歩き始めるトーノの背を、ノクスは一拍遅れて追いかけた。




森はひどく静かだった。

生き物の気配すら感じられない。


エン=ザライアの近くには、こうした場所が点在している。

呪いの気配に気圧されてか、虫も、渡り鳥も、魔物でさえもこの地を避ける。

音も匂いも乏しい、ただの森。それが、いまのふたりには都合がよかった。



季節は夏へと向かいつつある。

日差しは強く、歩き続けるには疲労が積もる頃だった。

枝葉の重なるこの森は、陽の光を遮ってくれる。風はなくとも、影の中にいるだけでいくらか呼吸が楽になる。



玄宰「ここで少し休め」



トーノの声にしては静かすぎたそれは、玄宰のものだった。

森の奥へと視線を向けながら、短く言い添える。



玄宰「水を汲んでくる」



ノクスは何も言わずにうなずいた。

昨夜の戦いから、傷の手当ても満足にできていない。

身体にはじわりと熱がこもり、歩みのたびに痛みが響く。


その疲れが、顔にも滲んでいたのだろう。


ノクスはひとつだけ息を吐き、背中の荷を下ろして、木の根元に腰を下ろした。

風はない。けれど、この静けさだけは、今だけはありがたかった。



ノクス「ありがとう、トーノ」



ノクスがぽつりと呟いた言葉を、トーノの中の玄宰は背中で受け止めた。

ノクスが今、目の前にいるのがトーノなのか、玄宰なのかを見分けかねているように、当の玄宰自身も、それを断言できずにいた。



技術者として都市の機構を支えた記憶。

その計画に資金を注ぎ込み、動機の裏を操っていた出資者としての記憶。

そして、呪われた街で呪徒として生きた記憶。



玄宰の中の三つの魂は、すでに継ぎ目も輪郭も曖昧に溶け合い、時に混ざり、時に一体となって彼の思考を形作っている。



そこに、かつて自分に捨てられた“失敗作”、トーノの記憶と感情が静かに沈殿している。


本来はただの器として生まれた肉体に、予期せぬ自我が芽生えた。

それを切り捨てたはずの自分が、今こうしてその体に収まり、共に歩いているという矛盾。

その奇妙さ、その不可解な内的構造は、玄宰の中のある衝動を強く刺激していた。



――境界はどこにある? それとも、もう無いのか?



考えれば考えるほど、答えは深みに沈んでいく。

だがそれでもなお、彼の内には確かに疼くものがあった。

かつて技術者として、生物と魔法の境界を探った時のように。

かつて出資者として、冷酷に計画の成否を天秤にかけていた時のように。

その時と同じ熱が、今、自らの中の魂の構造に対して燃え始めている。



玄宰「……面白い」



誰にも聞かせることのない、ひとりごとのような呟きが、喉の奥でかすかに転がった。


やがて、小さな泉を見つける。


ノクスから預かった水筒に、手早く水を汲む。その無駄のない動きは、たしかにトーノのものだった。

水面に目を落とし、水質に危険がないかを探る鋭い視線は、二人の技術者の記憶が動かしていた。


そして、何のためらいもなく先に自らの喉を潤したその動作には、

己を他者より優先して当然と信じていた、かつての出資者の性質が微かに滲んでいた。



トーノが木立を抜け、ノクスの元へ戻る。


ノクスは大きな樹の幹に体を預け、細く苦しげな呼吸を繰り返していた。

その額にはうっすらと汗が浮かび、唇はわずかに乾いている。



トーノは無言のまましゃがみこみ、ノクスの外套に手をかけた。

留め具を外す指先に迷いはなかったが、胸の奥にざわつくものがある。

外套の下、シャツには固まりかけた血が広がり、脇腹から背にかけて滲んだ色が染み出していた。

その下の肌――見るまでもなく、さらに悲惨な状態であることは想像がつく。



その傷を負わせたのは、支脈の呪徒。

そう呼ばれていた者たち。

だがその支脈の最奥にいたのは、他ならぬ自分――玄宰だった。


胸が痛む。

その痛みは、恐らく、トーノという人格のものだった。



玄宰「水だ、飲んでおけ」



水筒を開け、ノクスの口元へと傾ける。

わずかに目を開いたノクスは、水の気配に反応したが、ほとんどは唇からこぼれ落ち、首元を濡らすばかりだった。



トーノ――いや、玄宰は、わずかに顔をしかめる。

魔力の枯渇が、肉体の回復力を奪い、傷の悪化を早めている。

それは理解できる。理屈は知っている。



――だが。



知識は、手段にはならない。

図面も薬草の成分表も、実験室の魔力循環器も、ここにはない。

ただの森だ。

何もない、ただの、生き物さえ寄りつかぬ沈黙の中だ。



救いたいと願っても、方法がない――はずだった。



身体は自然に動いていた。


自らの上衣を裂き、泉で濡らした布を丁寧に絞る。

そして、ノクスの傷口にそっとあてがい、血と汚れをぬぐっていく。

その動作には、迷いも、躊躇もない。



手はすでに次の作業へ移っていた。

草むらに目を走らせ、いくつかの薬草を摘み取る。

丸く平たい石を見つけ、それで薬草をすり潰し、緑がかった香りの汁を滲ませる。

それを布に包み、傷に塗り込む。



どれもが、見よう見まねのはずだった。

だが、その手つきは不思議なほど確かだった。

まるで、誰かに教えられた記憶が、指先を導いているかのように。



そのとき、玄宰の脳裏に浮かんでいたのは――マルベラの姿だった。


傷を癒すたびに見せていた、あの静かな瞳。

温かい手。

「大丈夫」と言葉を重ねるでもなく、ただ寄り添っていた彼女の背中。



思い出すつもりなどなかった。

なのに、忘れていたような記憶の断片が、静かに染み出してくる。



ふと、頬に冷たい感触があった。

触れてみると、指先に濡れた感触がある。



――誰の涙だ?



わからない。

トーノのものか。

玄宰のものか。




ただひとつ、はっきりしているのは、それはマルベラと過ごした記憶で、確かに誰かが泣いているということだった。

トーノ/玄宰の訂正しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ