4-22
エン=ザライアの近く。
日の光がまだ届くあの丘に、マルベラを静かに眠らせた後、ノクスとトーノは歩き出した。
呪われた街の周囲には、人の住む村や集落はもう存在しない。
それでも、彼らは先へ進む。
ふたりは古びた地図の記憶を頼りに、かつての道を手探りでたどっていく。
ふと足を止め、ふたりは未だ視界に映るエン=ザライアの崩れかけた観星塔を振り返った。
ノクス「……あの街に戻る気はないんだな」
玄宰「当然だ。あそこには、もう何もない」
口を挟んだのは、トーノの声だった。
けれどその響きは、どこか異質で、玄宰のそれだった。
玄宰「支脈の呪徒は潰えた。街を保っていた連中も全滅した。
残ったのは、壊れた魔力と、呪われた骸だけだ」
ノクス「……全部、闇に飲まれるか」
玄宰「いずれはな」
淡々と告げられる未来。
その言葉の中に、後悔も哀惜もなかった。
玄宰「私はもともと、技術者をまとめる役割を持った二人の長と、組織に資金を出していた出資者が融合してできた存在だ」
ノクスは目を伏せる。
かつての魔導都市、そして今のエン=ザライアを裏で支えていたのは、支脈の呪徒たち。
そして、それらを取りまとめていた黒幕が、いま隣を歩いている。
ノクス「……お前がいなければ、あの街はもっと早く崩れてたな」
ぼそりと漏らした言葉に、トーノがふと足を止めた。
玄宰「皮肉か?」
ノクス「どうだろうな」
ノクスも立ち止まり、遠くを見やる。
玄宰「マルベラもいないあの街になんの未練もない」
ノクス「……それは、トーノの言葉か?」
応えはなかった。
ただ、ふたたび無言で歩き始めるトーノの背を、ノクスは一拍遅れて追いかけた。
森はひどく静かだった。
生き物の気配すら感じられない。
エン=ザライアの近くには、こうした場所が点在している。
呪いの気配に気圧されてか、虫も、渡り鳥も、魔物でさえもこの地を避ける。
音も匂いも乏しい、ただの森。それが、いまのふたりには都合がよかった。
季節は夏へと向かいつつある。
日差しは強く、歩き続けるには疲労が積もる頃だった。
枝葉の重なるこの森は、陽の光を遮ってくれる。風はなくとも、影の中にいるだけでいくらか呼吸が楽になる。
玄宰「ここで少し休め」
トーノの声にしては静かすぎたそれは、玄宰のものだった。
森の奥へと視線を向けながら、短く言い添える。
玄宰「水を汲んでくる」
ノクスは何も言わずにうなずいた。
昨夜の戦いから、傷の手当ても満足にできていない。
身体にはじわりと熱がこもり、歩みのたびに痛みが響く。
その疲れが、顔にも滲んでいたのだろう。
ノクスはひとつだけ息を吐き、背中の荷を下ろして、木の根元に腰を下ろした。
風はない。けれど、この静けさだけは、今だけはありがたかった。
ノクス「ありがとう、トーノ」
ノクスがぽつりと呟いた言葉を、トーノの中の玄宰は背中で受け止めた。
ノクスが今、目の前にいるのがトーノなのか、玄宰なのかを見分けかねているように、当の玄宰自身も、それを断言できずにいた。
技術者として都市の機構を支えた記憶。
その計画に資金を注ぎ込み、動機の裏を操っていた出資者としての記憶。
そして、呪われた街で呪徒として生きた記憶。
玄宰の中の三つの魂は、すでに継ぎ目も輪郭も曖昧に溶け合い、時に混ざり、時に一体となって彼の思考を形作っている。
そこに、かつて自分に捨てられた“失敗作”、トーノの記憶と感情が静かに沈殿している。
本来はただの器として生まれた肉体に、予期せぬ自我が芽生えた。
それを切り捨てたはずの自分が、今こうしてその体に収まり、共に歩いているという矛盾。
その奇妙さ、その不可解な内的構造は、玄宰の中のある衝動を強く刺激していた。
――境界はどこにある? それとも、もう無いのか?
考えれば考えるほど、答えは深みに沈んでいく。
だがそれでもなお、彼の内には確かに疼くものがあった。
かつて技術者として、生物と魔法の境界を探った時のように。
かつて出資者として、冷酷に計画の成否を天秤にかけていた時のように。
その時と同じ熱が、今、自らの中の魂の構造に対して燃え始めている。
玄宰「……面白い」
誰にも聞かせることのない、ひとりごとのような呟きが、喉の奥でかすかに転がった。
やがて、小さな泉を見つける。
ノクスから預かった水筒に、手早く水を汲む。その無駄のない動きは、たしかにトーノのものだった。
水面に目を落とし、水質に危険がないかを探る鋭い視線は、二人の技術者の記憶が動かしていた。
そして、何のためらいもなく先に自らの喉を潤したその動作には、
己を他者より優先して当然と信じていた、かつての出資者の性質が微かに滲んでいた。
トーノが木立を抜け、ノクスの元へ戻る。
ノクスは大きな樹の幹に体を預け、細く苦しげな呼吸を繰り返していた。
その額にはうっすらと汗が浮かび、唇はわずかに乾いている。
トーノは無言のまましゃがみこみ、ノクスの外套に手をかけた。
留め具を外す指先に迷いはなかったが、胸の奥にざわつくものがある。
外套の下、シャツには固まりかけた血が広がり、脇腹から背にかけて滲んだ色が染み出していた。
その下の肌――見るまでもなく、さらに悲惨な状態であることは想像がつく。
その傷を負わせたのは、支脈の呪徒。
そう呼ばれていた者たち。
だがその支脈の最奥にいたのは、他ならぬ自分――玄宰だった。
胸が痛む。
その痛みは、恐らく、トーノという人格のものだった。
玄宰「水だ、飲んでおけ」
水筒を開け、ノクスの口元へと傾ける。
わずかに目を開いたノクスは、水の気配に反応したが、ほとんどは唇からこぼれ落ち、首元を濡らすばかりだった。
トーノ――いや、玄宰は、わずかに顔をしかめる。
魔力の枯渇が、肉体の回復力を奪い、傷の悪化を早めている。
それは理解できる。理屈は知っている。
――だが。
知識は、手段にはならない。
図面も薬草の成分表も、実験室の魔力循環器も、ここにはない。
ただの森だ。
何もない、ただの、生き物さえ寄りつかぬ沈黙の中だ。
救いたいと願っても、方法がない――はずだった。
身体は自然に動いていた。
自らの上衣を裂き、泉で濡らした布を丁寧に絞る。
そして、ノクスの傷口にそっとあてがい、血と汚れをぬぐっていく。
その動作には、迷いも、躊躇もない。
手はすでに次の作業へ移っていた。
草むらに目を走らせ、いくつかの薬草を摘み取る。
丸く平たい石を見つけ、それで薬草をすり潰し、緑がかった香りの汁を滲ませる。
それを布に包み、傷に塗り込む。
どれもが、見よう見まねのはずだった。
だが、その手つきは不思議なほど確かだった。
まるで、誰かに教えられた記憶が、指先を導いているかのように。
そのとき、玄宰の脳裏に浮かんでいたのは――マルベラの姿だった。
傷を癒すたびに見せていた、あの静かな瞳。
温かい手。
「大丈夫」と言葉を重ねるでもなく、ただ寄り添っていた彼女の背中。
思い出すつもりなどなかった。
なのに、忘れていたような記憶の断片が、静かに染み出してくる。
ふと、頬に冷たい感触があった。
触れてみると、指先に濡れた感触がある。
――誰の涙だ?
わからない。
トーノのものか。
玄宰のものか。
ただひとつ、はっきりしているのは、それはマルベラと過ごした記憶で、確かに誰かが泣いているということだった。
トーノ/玄宰の訂正しました。