4-20
ナヴィは、扉をノックしかけた手をふと止めた。
扉の奥から伝わる微かな魔力の波。
それは、確かに覚えのある気配だった。
なぜここに?
なぜ、自分には何の言葉もなかったのか?
そして……なぜ、エラヴィアはまるで別人のように変わってしまったのか?
胸に積もる疑問のすべてが、この扉の向こうにある気がした。
開けば、答えがあるのだろうか。
迷いを押し殺し、ナヴィは静かに扉の取っ手に手をかける。
風が揺れる。
淡く、静かに、蝶番が音を立てて軋んだ。
目の前に広がったのは、
懐かしく、けれどあまりにも遠ざかっていた光景だった。
そこにいたのはやはり、死神の魔力を纏うひとりの少女。
ナヴィ「……ベル」
その名が口から漏れたとき、
喉が震え、胸の奥がひどく軋んだ。
ラベンダーの瞳。
透き通る白い肌。
風にそよぐ髪。
記憶と寸分違わぬその姿は、まるで時間だけが止まっていたかのようだった。
けれどどこかおかしい。
微かに揺れる瞳。
穏やかに笑むその顔に、ほんの僅かな靄がかかっている気がした。
次の瞬間、ベルがこちらに気づき、ゆっくりと目を細める。
ベル「ナヴィ……? 来てくれたの?」
その声はたしかに彼女のもので、
けれど、まるで夢の中のように、現実感の希薄な響きだった。
ナヴィ「ベル……どうして、ここに」
ナヴィの声は、微かに震えていた。
エラヴィアの友人であるベルがこの塔に滞在していること自体は、不自然なことではない。
けれど、なぜ自分に知らされなかったのか。
まるで隠すように、秘密裏に。
ベルを救う旅において、共に戦う護衛として自分を指名してくれたエラヴィア。
あの時の誇りすら、今ではかき消されそうだった。
胸の内に膨らむのは、信頼に微かに生じた綻び。
ナヴィが目を向けた先で、エラヴィアはただ静かに、穏やかに微笑んでいた。
ベル「どうして……私はどうしてここに……?」
不意に、ベルの瞳が揺れた。
その小さな声は、自身の内から湧き上がる違和感を掴もうとするかのように震えていた。
そして答えを求めるように、ゆっくりとエラヴィアへと視線を向ける。
エラヴィアは、まるで優しい母が迷子を諭すように、囁く。
エラヴィア「大丈夫よ、ベル。あなたはここにいるべきだから、ここにいるの。私のそばに」
その言葉とともに、彼女の指がベルの額にそっと触れた。
瞬間、風が揺れた。
ベルのまぶたが、ゆっくりと、静かに閉じられていく。
その体が、ふわりと力を抜いたように傾ぐ。
ナヴィの目の前で、彼女はそっと意識を手放した。
まるで、導かれるように。
まるで、それが当然であるかのように。
眠るベルの横で、静かにエラヴィアが口を開く。
エラヴィア「ナヴィ……この子にはまだ、呪いの糸が残っているの。
そして何より……彼女を不老不死にした“祝福”から解放したい。今回の旅の話を聞いて、改めてそう感じたわ」
その声は、いつものように静かで穏やかだった。
けれどナヴィの胸の奥では、小さな違和感がざわめき始める。
それでもら
エラヴィアの想いそのものに、ナヴィは否定できないものを確かに感じていた。
死神の祝福。
それは命の終わりを奪い、永遠の時を少女に与える“呪い”。
ナヴィは、目の前で見た絶望の光景を思い出していた。
エン=ザライアで、支脈の呪徒たちが群れとなり、狂気の波のようにベルに襲いかかってきた瞬間を。
血肉を求めて伸びた無数の手。
裂けた口と、咀嚼する音、嗤うような声。
それでもベルは死ななかった。
何度引き裂かれ、押し潰されようとも、その身は不死であるがゆえに“終わらなかった”。
それは、彼女にとっての地獄だった。
終わることのない苦痛。
死すら許されない狂気の時間。
ナヴィの手が、無意識に拳を握り締めていた。
ベルに、“普通の少女としての時間”を返したい。
その想いに、ナヴィはゆっくりと頷いた。
ナヴィ「……確かに、俺もそれを望んでいます。
ベルが、いつか終わりのある道を、穏やかに歩めるように……」
その返答に、エラヴィアはほっとしたように、けれどどこか確信めいた微笑を浮かべた。
エラヴィア「ありがとう、ナヴィ。あなたなら、きっと理解してくれると思っていたわ」
彼女の手が、そっとベルの額から頬へ滑る。
慈しむように、その髪を撫でながら続ける。
エラヴィア「今、彼女をこの塔に留めているのは、私と彼女の間に生まれた、信頼という絆を媒介にした魔法よ。
無理に閉じ込めているわけではない。
でも……この場所にいることが“自然”だと思わせる術」
エラヴィアはゆっくりとナヴィの方へと視線を向ける。
その瞳に宿るのは、柔らかくも抗いがたい意志だった。
エラヴィア「ナヴィ、もしも……あなたがそれを“歪んだ支配”だと思うなら、
私はあなたに塔を去ってもらうつもりだったの。
守り手たちの遠征に、予定通り合流してもらう形で」
沈黙が落ちる。
ナヴィは、その意味をようやく理解した。
この部屋にたどり着けたのも、気配を感知できたのも、すべてはエラヴィアが、わずかに“誘った”からだ。
自分の意志でここに来て、
自分の意志で“理解した”という状況を、
彼女は慎重に、巧みに、仕組んでいた。
エラヴィアは微笑をたたえたまま、再びベルの髪を撫でる。
エラヴィア「あなたには、私の手伝いをお願いするわ。
ひとりでは、すべてを整えるには時間がかかりすぎるの」
ナヴィは、視線を眠るベルへと落とす。
少女の胸が、静かに上下する。
まるで、普通の少女のように。
けれど彼の内には、未だ晴れない霧のような何かが残っていた。
ナヴィ(俺は、正しい答えを選べているのだろうか)
その答えはまだ、彼の中で言葉にならなかった。