4-19
夏の昼下がり。
風の塔の一室にも、わずかに夏の熱が届く。
それでもこの部屋には、決して不快な暑さはなかった。
塔に満ちる風の魔力が、空気を優しく撫でるように循環させ、陽光すらもどこか和らげていた。
清らかで、柔らかく、眠気を誘うほど穏やかな空間。
ここは風の塔の中のベルの部屋。
旅の途中でしばらく身を寄せたその頃のままに、丁寧に保たれている。
エラヴィア「覚えてる?あの夏の日……ほら、西の境界線の村に行った時のことよ」
窓辺の風に髪をなびかせながら、エラヴィアは微笑む。
ベルはベッドの上に座り、少し首を傾げながらも、柔らかな笑みで相槌を打った。
ナヴィ「ええ、なんだか暑くて、魔物もぐったりしてたのを思い出すわ」
その言葉に、エラヴィアの胸の奥に微かに痛みが走る。
ベルはまだ、自分が死神の揺り籠から目覚めたばかりで、今もその疲労を癒すためにここにいるのだと信じている。
そうこれは「囚われている」わけではない。
嘘も、欺きも、精神への強制的な魔法も使ってはいない。
エラヴィア自身、決してそうした術を選ぶつもりはなかった。
だがベルは今自分の意志で、ここにいると思っている。
自然と、ここに在るべきだと信じて。
それは、二人の間に長年かけて育まれた“信頼”を触媒とした、特別な術式によるもの。
誓いのような術。
その根底には、絆と想いがある。
そして、その絆がベルの心を静かに縛り、塔の中にとどまらせているのだ。
エラヴィアは目を伏せる。
この術を選ぶことに、最後まで葛藤がなかったわけではない。
――本当に、これで良かったのだろうか。
友人を欺いているのではないか。
この術は、友情を歪めているのではないか。
その疑問が、幾度もエラヴィアの中に浮かんでは消えた。
けれど、最後の一歩を踏ませたのはあの光だった。
ベルの笑顔を見つめる自らの瞳に、重なるように瞬いた琥珀の光。
エラヴィア自身すら気づかないほどに静かに、深く入り込んでいた。
光と救済の神、ルクシア。
その意志が、知らぬ間にエラヴィアの判断を導いていた。
そして今も、彼女の中で息づいている。
柔らかく、それでいて絶対的な光の意思。
それは、いつの間にか「正しさ」として、エラヴィアの中に根を張っていた。
エラヴィア(ベルのため。私が彼女を守るために必要なこと……)
静かに、風が部屋を撫でた。
その流れはどこか祈りのように清らかで、そして、どこか閉じ込めるように優しかった。
窓辺のソファに腰かけたベルは、淡く揺れるラベンダーの髪を揺らしながら、昔の旅のことを語っていた。
その表情はどこか無邪気で、年相応の少女のように見えた。
ベル「……あの時、エラヴィアが起こした風の魔法で蜂の巣を一緒に落としてしまった時は困ったわね」
そう言ってくすりと笑うベルに、エラヴィアは静かに頷いた。
傍らの椅子に腰を下ろし、手の中のティーカップを見つめたまま、ベルの言葉に耳を傾ける。
けれどその瞳は、今ここにはなかった。
ベルの声を受け止めながらも、意識の底では思考が渦を巻いていた。
エラヴィア(この子を必ず、本当の少女に戻す)
その決意は、静かに、けれど強く、エラヴィアの胸の内に息づいていた。
不老不死の呪い。
死神の祝福と呼ばれる、あまりにも美しく、あまりにも残酷な力。
エラヴィアがその力に不信を抱いたのは、今に始まったことではない。
ずっと前からだ。
果てのない時をただ彷徨い続けるように生きるベルの姿を見て、何度も疑問を覚えてきた。
“祝福”とは、果たして本当に与えられるべきものなのか。
不老不死の存在に“死”は訪れない。
たとえ死が祝福からの解放となるとわかっていても、ベルは死ぬことができない。
では、どうすれば。
長い探求の果てに辿り着いた、もう一つの道。
神の祝福を、別の神へと塗り替えること。
この世界に祝福を授ける神は数あれど、それを受けられるのは、極めて稀な“選ばれし者”だけ。
信仰と祈り、そして神の意志。それらが揃ってはじめて、その奇跡は降りる。
エラヴィアは目を伏せる。
心の奥に響く言葉があった。
あの夜。
月が血のように赤く染まった夜、夢か現かも分からない世界で囁かれた声。
――私の手が必要であれば……祈りなさい。
たとえ幾千の闇に隔たれようとも、必ず手を差し伸べましょう
あの声の主。
光と救済の神ルクシア。
まるで導かれるように、エラヴィアの中でその言葉が繰り返される。
エラヴィア(本当に、それが……ベルを救う道なのだろうか)
わからない。
だが、少なくとも“現実”として、あの神は手を差し伸べると言った。
それが本物の救いかどうかは、まだ分からないとしても。
ソファに座るベルが、ふとティーカップを持ち上げた。
ベル「ねえ、エラヴィア。これ、ミィナが選んでくれた紅茶と似てる気がする」
その何気ない言葉に、エラヴィアは微笑みを返す。
エラヴィア「ええ、そうかもしれないわ。ミィナの趣味はいいものね」
ほんのわずかに揺れるカップの中。
その水面に映る少女の横顔は、やはりどこまでも穏やかで、どこか遠かった。
エラヴィア(あと少し……もう少しだけ、この子を手放せない)
エラヴィアは思う。
この手で救うことができるのならきっと、それは間違いではない、と。
足音が近づく。
その気配を、エラヴィアは風の揺らぎを通して確かに感じ取っていた。
柔らかく、けれど確実に。 迷いを含んだ足取りは、まるで何かを探るようにゆっくりと近づいてくる。
――ナヴィ。
彼の存在を知覚したエラヴィアは、そっと目を伏せる。
この部屋にかけられた結界は、覆い隠すためのものではない。 幾重にも重ねられた薄絹のような風の膜。
それは見る者の意識を、ほんの少しだけ逸らす。
まるでそこに何もないかのように。
ベルを完全にこの世界から隔絶することも可能だった。
けれどその方法は、同時に彼らの視線すら断ち切ってしまう。
ベルに“死神の祝福”を授け、未だ見守るその存在。
そして、未だ呪いの糸でベルと繋がるセラフ。
その二者からの接触を断つことは、今は沈黙している彼らを刺激してしまう。
今は何よりも、ベル自身の魂に余計な負担を与えてしまう。
だからエラヴィアは選んだ。
――存在を“隠す”のではなく、“ぼかす”。
結界の風は、あくまで優しく、そっと人の目と心を逸らせるだけのもの。
そして今。
その結界をわざと、弱めた。
ほんのわずか。
それだけで、賢い彼ならば気づく。
何か、があると。
この塔の中層に、かつて見知ったはずの、けれど思い出せなかった気配があると。
静かな足音が、扉の前で止まる。
やがて――
ナヴィ「……失礼します」
コン、コン。
扉をノックする音が、空気を震わせた。
エラヴィアはゆっくりと立ち上がり、微笑んだ。