4-18
ナヴィが、エラヴィアの瞳の奥に時折誰かの影を感じ取るようになってから、数日が過ぎていた。
あの微笑、いつも通りに見えるその表情の奥に、かすかに覗く別の存在の気配。
それが確信に変わるには、そう時間はかからなかった。
ある日の執務中、ふとした機会にナヴィはエラヴィアに尋ねる。
ナヴィ「ミィナとベルの様子は……いかがですか?」
ほんの何気ない問い。
そう装ったつもりだった。
けれどエラヴィアは、わずかに目を細めてから、ゆっくりと答えた。
エラヴィア「ええ、二人とも元気にしているわ。ミィナは夏の薬草を集めるのに忙しくしているし、ベルの様子も……大丈夫よ。ちゃんと見ているわ」
穏やかな語り口に、嘘の響きはない。
それが、かえってナヴィを戦慄させた。
ナヴィ「……ベルは、今も隠れ家に?」
その問いに、エラヴィアはゆっくりと首を横に振った。
エラヴィア「いいえ。もう、そこにはいないわ」
そのまま、会話は終わった。
どこにいるのか。
なぜなのか。
いつ、どこへ向かったのか。
そうした問いを、口にする余地すら与えられなかった。
エラヴィアはただ、柔らかく微笑んでいる。
ナヴィ(本当は、すべて知っているのだろう)
ナヴィはそう確信した。
探るような視線を向けても、彼女は咎めることも、追及することもなかった。
それは慈しみでも寛容でもない。
ただ気づかれても構わない、というあまりにも余裕に満ちた態度。
ナヴィの中で、確かな不協和音が鳴り続けていた。
それは今や疑念ではない。“不信”という名の、冷たい確信だった。
それからというもの、ナヴィは蒼風の守り手の遠征任務への合流を、様々な理由をつけて先延ばしにしていた。
塔の守りがまだ手薄だ、街の外縁に魔物の気配が残っている。
それらはすべて、もっともらしく整えられた言葉だった。
けれど本当の理由は、別のところにあった。
エラヴィアの変化。
彼女が何かを隠していること。
そして、その何かにベルが関わっているという確信。
それにナヴィが気がついていると、エラヴィアも気づいていないはずがない。
聡明なその瞳は、いつもナヴィの嘘や逡巡を見抜いてきた。
視線ひとつで、全てを見透かすような洞察の力。
けれど、今の彼女の瞳は違っていた。
ナヴィの目を見ても、何かを探ろうとはしない。
それどころか、まるで取るに足らない、とでも言いたげな、どこか傲慢さを帯びた沈黙を向けてくる。
ナヴィ(エラヴィア様……いや、違う。これは本当に、エラヴィア様なのか?)
心の奥で繰り返される問いに、ナヴィの思考は静かに軋む。
彼の胸を満たしてきた忠誠。
命を救われ、生きる意味を与えられた彼女への、絶対の敬意と信頼。
だが、今目の前にあるのは、かつての風の賢者ではないように思える。
ナヴィ(何かが起こっているのは、確かだ……けれど、俺は――)
ナヴィは、揺れていた。
忠義を貫くべきか。 それとも、自らの意思を選び取るべきか。
夏の陽射しが真上から降り注ぐ昼下がり。
風の魔力で空気がゆるやかに流れるこの塔の中でも、夏の熱は確かに届いていた。
「ナヴィさん、もう一つお願いできませんか?」
「こっちのも溶けてきちゃって!」
塔のあちこちから声がかかるたび、ナヴィは苦笑しながら掌をかざす。
瞬く間に冷気が凝縮し、手のひらの上に淡い青の氷の結晶が浮かび上がる。
ナヴィ「ほら、口を切らないように気をつけてくれ」
冷気を帯びたそれを手渡すと、若い魔術師たちは歓声を上げて喜ぶ。
夏の気怠さも、この瞬間だけは忘れさせてくれるようだった。
ナヴィは蒼風の守り手の筆頭。
塔に仕える者たちの多くが彼に敬意を抱いている。
口数こそ多くないが、その確かな実力と、寡黙ながらも面倒見のよさが知られているからだ。
「ナヴィさんって、たしか竜人なんですよね? 氷の魔力って、もしかして……」
「銀竜の血を引いてるって噂もあるけど、ほんとかな」
冗談交じりの会話に、ナヴィは肩をすくめて微かに笑った。
「風の塔の中が涼しいのは私たちの結界の力よ」
「でも今日はさすがに負けてるかもね」
そんな談笑の輪に加わりながらも、ナヴィの瞳だけは、ふとした隙間に漂う気配を探し続けていた。
「エラヴィア様なら、さっき中庭の方にいたはずだけど……」
「いや、さっき中層に向かっていくのを見たぞ」
「暑さで体調を崩してないといいけどなあ」
何気ない会話の中にひとつ、ナヴィの思考を止めた言葉があった。
ナヴィ「中層……?」
塔の構造は、ナヴィの身体に染みついている。
風の通り道がいくつも交差し、魔力の流れが複雑に巡るその中にひとつだけ、最近なぜか足が向かなくなっていた場所がある。
その奥にある部屋の存在を何故かすっかり忘れていた。
もともとナヴィ自身はそこに用があるわけではなく、エラヴィアの友人のためにあると聞いていたその部屋。
ナヴィ「……ベルの部屋」
誰にも聞こえない声で呟いたその言葉が、空気の中に沈んでいく。
彼の中で、微かな風がざわめいた。
そしてその風は、彼の背をそっと押すように……塔の中層へと導こうとしていた。