4-17
空を貫くようにそびえる、風の塔。
その扉の前でひとつ息を吸い、ナヴィは静かに手を伸ばす。
軋むこともなく静かに開かれる扉。
風が迎える。塔の中から吹き出すのは、エラヴィアの魔力が巡らせた、清浄で穏やかな空気。
けれど、その奥に微かに揺れる一筋の違和感を、ナヴィは確かに感じ取っていた。
塔の扉をくぐり抜けたナヴィは、いつものように静かに階段を上がりながら、通路ですれ違う魔術師たちに声をかけた。
ナヴィ「何か変わったことは、なかったか?」
その問いに、ギルドの者たちは一様に首を横に振る。
「いいえ、特には」
「平穏そのものですよ」
「ナヴィ様のいない間も問題はありませんでした」
皆、そう言う。
ナヴィ(……言葉に、嘘はない)
だが、ナヴィの眉がわずかに寄る。
それは“言っていないことがある”という、空白のような違和感。
あえて隠そうとしているわけではない。
けれど、それゆえに余計に浮かび上がる“何か”。
まるで塔の空気そのものが、ひそやかに何かを抱えているようだった。
ナヴィ(この塔に、見えない翳りがある)
ナヴィは目を伏せ、静かに魔力の波を放った。
風の流れに魔力を乗せ、塔の隅々に意識を巡らせる。
が、その“波”は、探るほどに霞み、溶けるように霧散してしまった。
ナヴィ(魔力の流れが遮られている……?)
見えない何かが、探知の術を妨げている。
通常の結界や魔除けとは異なる“意志”を帯びた遮断――
そう思った瞬間、ナヴィの脳裏に浮かんだのは一人の男の姿だった。
ナヴィ(……魔力の探知が得意なやつがいたな)
氷の瞳に淡く灯る記憶。
ノクス。
ベルとナヴィを救うため、エン=ザライアからの脱出の際、自らを囮にし、その後姿を消した男。
ナヴィ(あいつなら……見つけられるのかもしれない)
重ねた時間は短くとも彼の気配は強く、ナヴィの記憶に鮮やかに残っていた。
それを、ナヴィは確かに感じていた。
ナヴィ(あいつのことも……探しに行けるのなら)
思考が一瞬、遠い街へと飛びかける。
だがその前に、まずはこの塔の中で何が“隠されているのか”を見極めねばならない。
塔の中を静かに歩くナヴィの足取りは、いつになく慎重だった。
ナヴィ(気配は……ある)
エラヴィアの魔力は確かに塔内にあった。
だが、それはまるで霧の中に沈んだ灯のように所在が掴めず、微かに漂うばかりだった。
ナヴィ(隠している……?いや、“隠しているつもりはない”のかもしれない)
けれど、どこか違和感がある。
それは彼女自身の魔力の揺らぎか、それとも……。
ナヴィは思考を深くせず、塔の最上階、エラヴィアの執務室へと向かうことを決めた。
彼女がいつも戻る場所。
ここでなら、きっとすぐに会えるだろう。
執務室の扉を開くと、そこには変わらぬ整然とした空間が広がっていた。
ナヴィ(この部屋も……何かが違う)
常に澄み切った風の魔力が満ち、穏やかな空気に包まれていたその場所には、今、もう一つの“何か”が潜んでいた。
それは濁っているわけでも、不快なわけでもない。
ただ――違う。
清浄な風の中に、微かに混じる別の“響き”。
それはナヴィの心に、かすかな乱れを生じさせるには十分だった。
ナヴィ(これは……エラヴィア様の気配だけではない)
そんな確信めいた感覚が、胸を締めつける。
やがて、扉の向こうから足音が近づき、エラヴィアが静かに部屋へと戻ってくる。
風をまとうその姿はいつも通り優雅で、薄衣の裾が舞うように揺れる。
エラヴィア「おかえりなさい、ナヴィ」
柔らかな声。
微笑む顔。
けれど、その目に映る光は、どこか深い湖の底に沈んだような静けさを帯びていた。
ナヴィはその様子をじっと見つめながら、小さく頭を下げる。
ナヴィ「戻りました。……お変わりは、ありませんか?」
エラヴィアはそっと微笑みながら、頷いた。
エラヴィア「ええ。何も」
けれどナヴィにはわかっていた。
その言葉の奥にあるものが、確かに何かを覆い隠していることを。
ナヴィは一歩前に出て、背筋を伸ばしたまま静かに報告する。
ナヴィ「街の周辺に現れた異形の魔物の群れはすべて掃討しました。残党も確認されていません」
その言葉に、エラヴィアは穏やかな笑みを浮かべる。
エラヴィア「ご苦労様、ナヴィ。……やはりあなたがいてくれると心強いわ」
そう言いながら、風の魔力を纏った彼女は執務室の重厚な椅子にゆるやかに腰を下ろす。
その優雅な所作は変わらないはずなのに、ナヴィの胸には言い知れぬ違和感が残ったままだ。
ナヴィ「怪我の回復も順調そうね。そろそろ……蒼風の守り手の遠征に加わってもらおうかしら」
エラヴィアの声はあくまで優しく、けれどどこか「命じる」響きを帯びていた。
ナヴィはほんの一瞬、目を伏せてから口を開く。
ナヴィ「遠征……ですか」
その言葉を繰り返す声には、迷いが滲んでいた。
現在、蒼風の守り手の主力は、エルセリオから遠く離れた地へ派遣されている。
異なる気候、文化、魔力の流れ。地理的にも精神的にも、遠い地。
以前のナヴィであれば、何のためらいもなくその任を請けたことだろう。
エラヴィアのために、剣を振るうことは己の存在理由だったのだから。
だが今、彼の声は低く、心の奥を探るように続けられる。
ナヴィ「……俺は、ノクスのことを――」
けれどその言葉は、途中で遮られた。
エラヴィア「ナヴィ」
呼びかける声は、やわらかく、微笑みに満ちていた。
だがその笑みは、どこか拒絶にも似ていた。
エラヴィア「あなたは心配しなくていいの。……彼のことは、私が救うわ」
ナヴィはその言葉の重みに、ほんの僅かにまばたきを遅らせた。
その目の奥に、一瞬揺れた光。
ナヴィはその微細なきらめきに、拭えぬ違和感の正体が潜んでいるのではないかと、直感した。
ナヴィ「ですが――エラヴィア様。いずれベルの体が完全に回復すれば、彼女はきっとノクスを救うため、再び旅立つでしょう。彼女を一人で行かせるわけには」
言い切る前に、ナヴィは自ら言葉を飲み込んだ。
エラヴィアが口を開いたわけではない。手を挙げて制したわけでもない。
ただそこに、静かに、彼女が微笑んでいた。
いつも通りの、柔らかで優しい笑み。
だが、その微笑はあまりにも“整いすぎて”いた。
その表情には、一点の曇りも、揺れもなかった。
まるで仮面のように、完璧に張り付けられた優しさ。
そしてその奥には、「他人の意見など聞く気はない」という、絶対的な意志が潜んでいた。
エラヴィア「……あなたが気にすることはないわ」
声もまた、穏やかで、慈しみに満ちていた。
だがナヴィは返す言葉を失った。
その穏やかさが、あまりにも冷たいものに感じられたから。
エラヴィア「ベルも私が救ってあげるわ」
その言葉に、胸の奥が凍りつくような寒気が走った。
“ベルを救う”
その響きは、確かにエラヴィアのものだった。
けれど、ナヴィの目に映る彼女は、もはや知っているエラヴィアではなかった。
ナヴィ(……誰、だ?)
口に出すことはできなかったその問いが、確かな震えとなって心に残った。
まるで、風が止まったかのような静寂の中で、ナヴィはただ、彼女を見つめ続けるしかなかった。