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風の街エルセリオから少し離れた街道沿いの平原。
夏の陽射しに揺れる草の匂いの奥に、微かに立ちのぼる不穏な気配があった。
ナヴィは、風のような静けさでその一帯を見渡す。
蒼銀の髪がなびき、背を包む長衣が微かな音を立てて空気を裂いた。
エン=ザライアへの旅で負った傷が癒えたのち、
《蒼風の守り手》の遠征任務には加わらず、
ナヴィは風の塔に滞在していた。警護という名目のもとに。
だが、ここ数日は街の外縁に現れた魔物の気配を追い、再び野に出ていた。
魔力に歪み、形を崩した異形の群れ。
そのおぞましい姿が蠢くたび、ナヴィの双眸がわずかに細まる。
本来、人を恐れぬはずのそれらが、時に避ける対象がある。
“死の匂い”を帯びた存在。
ナヴィの脳裏に浮かんだのは、死神の祝福を受けた少女、ベルの姿だった。
ナヴィ(死の匂いをまとう彼女が、誰よりも死から遠い存在だなんて)
皮肉のようでいて、どこか切実な思いが胸を掠める。
だがその感情は、彼の剣の軌道を鈍らせることはなかった。
一歩、踏み込むたびに氷の魔力が風とともに舞い、
ナヴィの剣が音もなく空を裂く。
魔物たちは悲鳴をあげる間もなく凍てつき、そして斬り伏せられていく。
その冷気は、ナヴィの意志そのもの。
揺るがず、迷わず、確実に。
彼はこの世界に許されぬ存在を静かに、ただ粛々と断ち切っていった。
氷の魔力によって凍てつき、血を流すこともなく崩れ落ちていく異形の魔物たち。
その動きが完全に止まった瞬間、周囲に再び夏草のざわめきが戻ってきた。
倒れた魔物の一体。
それはまだ、人の姿の名残を残していた。
歪んだ顔の輪郭、崩れた四肢、けれどその瞳の奥には確かに、かつて人として生きていた証のような光が宿っていた気がした。
ナヴィは足を止め、その亡骸に視線を落とす。
異形の魔物。
それは何かの災いによって変質した者たち。
姿も性質も一様ではなく、影のような存在もいれば、人の形を留めたまま正気を失った者もいる。
そして何より、生者の気配に反応するという本能に従い、彷徨い、襲いかかる。
まるで、生前に抱えていた強い執念や記憶が、そのまま形を変えてこの世界に残されたかのように。
ナヴィ「……俺も、エラヴィア様に救われていなければ……こうなっていたのかもしれないな」
その呟きは、誰に向けられるでもなく、風に溶けるように低く響いた。
あの冷たい日々、飢えと憎しみに揺れる心を、春の風のように包んでくれた声。
エラヴィアは、ナヴィに生きる意味と場所を与えてくれた。
だからこそナヴィは誓ったのだ。この命を、エラヴィアに捧げると。
だが。
ナヴィ(……最近のエラヴィア様は、何かが違う)
気配、言葉、視線り
わずかな綻びが、敏感な彼の感覚をかすめていた。
それが確かな形を持つものかは、まだ分からない。
けれど、救われた者だからこそナヴィは知っている。
エラヴィアは、誰かを救おうとする時、決してあのような目をしなかった。
それは、かすかに何かを「手放すまい」とする、強すぎる決意にも見えた。
そしてそれは、彼女が本来の優しさから逸れようとしている兆しに、思えてならなかった。
風が吹く。
氷の剣の刃に、消えゆく魔力の霧が絡む。
ナヴィは、風の街エルセリオの石畳を静かに歩いていた。
旅人たちが行き交い、露店の声と子どもたちの笑い声が街角に広がっている。
エルセリオは常に人の流れが絶えない街だ。港から陸路へ、陸路から魔法の塔へ。
この街の鼓動は絶えず風と共に流れていた。
それでも、街の空気は穏やかだった。
喧騒の中にあっても、どこか澄んでいる。
それは魔法ギルドの存在が、治安や秩序を保っているという現実的な要因もあるだろう。
けれど、ナヴィは思う。
ナヴィ(……やはり、それだけじゃない)
この街の空気を、温かく柔らかく整えているのはエラヴィア、その人の在り方だと。
銀竜の血を引く竜人というだけで、他の街では奇異や警戒の視線を向けられることもある。
ましてやナヴィの魔力は、氷のように鋭く、人の心を遠ざける。
だが、ここでは違った。
エルセリオの人々は、彼に過度な干渉もなく、しかし確かな尊敬と信頼の眼差しを向けてくれる。
ナヴィ(……すべて、エラヴィア様のおかげだ)
彼女が築いたこの塔。
魔法を学び、交わし、守り合うこの場所の礎を成した彼女の人柄が、街全体を包んでいる。
だからこそ、ナヴィの胸の奥にある不安は拭えない。
その彼女の中に、今確かに“何か”がある。
風のように柔らかく、それでいて、何かを閉ざすような気配。
ナヴィ(見極めなければならない)
その想いを胸に、ナヴィは塔の前に立った。